- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


13.江戸に赴き、水源の調査をはじめる


 藤五郎は家康の命を受け、早速、江戸に向かった。十代大久保忠記による『福田村』(天保五年・一八三四)から引用する。

『福田村』

永禄元亀の頃ハ今我が住あたりをば福田村と唱へ本町辺を千代田村と称し(又は野口村といいし共)室町辺を宝田村と称し家居もまばらなりけるに天正十八年御入国の前に御当地水筋よろしからざることかねてしろしめされ元祖主水忠行その頃三州宝飯郡赤坂郷に住せしに急ぎ江戸に参 上水を見立てべき旨仰せを蒙り武器御服路次の用途等賜はりて忠行家来仙水清左衛門熊井五郎左衛門等をめしつれ御当地神田福田村に至り・・・

 初代主水から二百五十年近く後の子孫の手によるものなので信憑性は乏しいが、このようなことだったのだろうという雰囲気はつたわってくる。
 すでに述べたように『天正日記』よると藤五郎は江戸に到着後、江戸町奉行の内藤清成に会い、飲料水の見立てを行なったことになっているのだが、具体的にどのようなことをしたのかについは、実はほとんど分かっていない。「歩行不自由」だった藤五郎が、果たしてどこまで具体的に事業を指図したのだろうか。

 江戸の上水についてもっとも多く資料を集めているのが『東京市史稿 上水篇』で、大久保藤五郎の事蹟について『御用達町人由緒』を引用して根拠としている。これは、明和四年(一七六七)に 八代目主水忠英(一七九〇/寛政二没)によって書かれた由緒書きで、町年寄を通じて提出されたものと思われる。

『御用達町人由緒』

御入国の節、於江戸水の手見立候様に被仰付、小石川水道見立候に付、 為御褒美主水と申名被下置候。


とあり、具体的なことはとくに書かれておらず、江戸上水の先駆けである小石川上水が、家康の江戸入国時の天正十八年に成立したことを主張しているのみである。ここで注目すべきは、その名称が神田上水ではなく、小石川上水でることだろうと思われる。

(2018.05.30)

*由緒書とは、家系や家柄、履歴、職能の起源、親族関係などを記録したものである。

*御用達町人とは、幕府や藩などに出入りして仕事をする商人、職人のことである。幕府の金座、銀座の座人や呉服所、菓子所、廻船御用達、藩の掛屋や蔵元、旗本や俸禄米の換金を行なう札差商人、武家に必要な物品を提供する商人(畳師、指物師、塗師、絵師、鍛冶 師、具足師)などがいた。彼らは名字帯刀を許された他、扶持米を給される など身分的に優遇されていた。大久保家も、幕府御用達の菓子司として 御用達町人の地位を得ていた。

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