* 享保の由緒書。享保四年(一七一九)の由緒調べの際に御目付方に提出した控えだろう。名は「大久保藤五郎忠行」となっているが、宝暦五年(一七五五)の由緒調べのときからは実名ではなく「大久保主水」と書くようになったという。
さて、この由緒書について、これを「慶長一九年(1614)」のものと早とちりしたのは、最後の行が「慶長十九年正月五日江戸於 御城」となっていたからだった。
それはさておき、この由緒書における初代主水についての文面は、大田南畝が蒐集・編纂した『家伝資料』(宝暦五年/1755)所収の「御菓子屋大久保氏」と題された由緒書と酷似している。なので、慶長に書かれた由緒書の内容が、宝暦までほとんど変更されずに維持されてきた、と判断してしまった。
その頭で双方を比較していたところ、宝暦の「御菓子屋大久保氏」のなかに「慶長十九年亥年正月五日江戸於御城御膳被為召上候節御献上初り」という文章があるのに気づいたのだ。げっ。もしかして・・・。そう。慶長の由緒書と思い込んでいた文書は途中で切れていて、前半しか残っていないのだった。その最後の行の「慶長十九年」を書かれた年だと思い混んでしまったのだった。やれやれだね。
あらためて但し書きを見ていくと、「由緒書巻始」に加えて、「吉宗公様 有徳院様 御代 享保四年己亥 月不詳 御目付方より諸向由緒御調有て堅紙に認実名誌六代大久保主水忠郷より御目付衆佐々木五郎右衛門殿木下清兵衛殿に差出候扣」とあり、これは「享保四年(一七一九)年の由緒調べのときに提出したものであると分かった。ちゃんと見てないからだ、まったく。
『東京市史稿』では、大久保主水の由緒書として『家伝資料』の「御菓子屋大久保氏」と、『御用達町人由緒』の由緒書を掲載している理由が、やっと分かった。この「享保の由緒書」は半分しかない。しかし、同内容で完全なものが『家伝資料』に載っている。であれば、『家伝資料』の「御菓子屋大久保氏」を信頼性の高い由緒書として引用したのも当然だ。
というわけで仕切り直し。↓は宝暦の由緒書「御菓子屋大久保氏」の、初代主水に関する部分である。
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・永禄六年(一五六四)十月、一向宗蜂起の際に上和田に立て籠もった。
・永禄六年(一五六四)十一月の戦いで、藤五郎は腰に被弾した。
・腰が不自由になり、三百石を賜って上和田に住まいした。
・家康が駿河に行ったさいに同行した。(天正十四年・一五八六)
・家康の江戸入国の際に召し出され、水の見立てを命じられる。(天正十八年八月・一五九〇)
・藤五郎は小石川水道を見立て、主水の名を賜る。(天正十八年・一五九〇)
・藤五郎は餅づくりが好きで度々餅を献上。御菓子奉行となった。
・以後、自分宅で餅をつくり、年始には菓子を単独で献上することが許されていた。
・それにより、紋付きと時服を拝領した。
・慶長十九年正月五日には、江戸城での御菓子献上が始まり「主水菓子」と呼ばれた。
・元和三年主水病死。以後は妻・日宝に申し付けることとなった。
・知行三百石は召し上げられ、町屋敷を拝領した。
・御菓子製造を申し付けられたため十右衛門(2代主水)を養子にした。
・日宝が病気になり、十右衛門による跡継ぎを願い入れ、寛永二十一年に病死した。
この由緒書きから分かるのは以上のような事柄である。別紙には「由緒書巻始斗り侍来」とあって、江戸大火などの際にもこれを優先して運びだし、守ってきたのではないかと思われる。
※なお、『史籍雑纂』所収の『家伝資料』および『東京市史稿』が引用する『御用達町人由緒』において、主水の妻を「日室」としているのは誤りで「日宝」が正しい。
(2018.07.17初稿アップ)
(2018.08.09改稿)