- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


16.由緒書に見る「上水の見立」について


 主水が手掛けたという上水事業について、由緒書はどのように書いているだろうか。関連する部分を抜き出して、年代順に見ていこう。
 念のため、初代大久保主水の没年は元和三年(一六一七)である。

享保の由緒書(由緒書巻始斗り侍来)享保四年(1719)六代目主水・忠郷(宝暦九年/1759没) / 
権現様駿河江御下向被為遊節、罷出江戸御入国の節被召出候。於江戸水之手見立候様に被仰付小石川水道見立候付、為御褒美主水と申名被下置候
大久保惣系譜延享五年(1748)八代目主水・忠英(寛政2年/1790没) / 
天正十八年庚寅八月朔日関東御入国之時、於武陵(蔵か?)、上水地理通用之見立被命、江府小石川水道就見立而為褒賞、名主水可相改旨被命之
御菓子屋大久保氏(『家伝資料』)宝暦五年(1755)八代目主水・忠英(寛政2年/1790没)  / 
江戸御入国の節、御供仕候。於江戸水之手見立候様に被仰付、為御褒美主水と申名被下置候。
御用達町人由緒明和四年(1767)八代目主水・忠英(寛政2年/1790没) / 
御入国の節、於江戸水の手見立候様に被仰付、小石川水道見立候に付、為御褒美主水と申名被下置候。
御賄御用達町人家譜---八代目主水・忠英(寛政2年/1790没) / 
駿河より御下向被遊候節被召出江戸御入国之節御付仕候 於江戸水の手見立候様に被仰付、為御褒美主水と申名被下置候
大久保主水由緒 長崎表砂糖直買被仰付候御由緒安永四〜六年(1775〜7)八代目主水・忠英(寛政2年/1790没) / 
権現様駿河へ御下向被為遊候節罷出、江戸御入国の節に召連候。於江戸に水の手見立候様に被仰付、小石川水道見立候に付、為御褒美主水と申す名被下置候。
文政の由緒書文政元年(1808)九代目主水忠宜(天保二年/1831)没) / 
天正十八寅年駿河江被召出再度 御目見被仰付此度関東御入国之処 江戸水悪敷諸人及難儀繁栄之地に 無之急キ彼地江罷越上水見立可申旨 蒙上意武具馬具御服其外道中 御手当被成下即日出立仕当地神田 福田村江参着仕右之条々申渡候処土地 之者共一統奉恐悦玉川筋被江觸流追々 水筋申出向々見分仕候処井之頭之池清 水にて里数近水道相斗水口切開神田 領迄水掛候間此段早々言上仕候処為 御褒美主水と申名被下之山越と申御馬 拝領仕歩行不自由に付御縄張中にても 乗馬御免被成下候 御入国後水元被遊上覧池水を以芝 野にて御茶湯被仰付三河餅献し御茶 畢て宮嶋と銘有之候御釜被下之不濁様 もんとと末々すみ唱可申旨蒙
文久の由緒書文久年間?十一代目主水忠保(明治三十七年/1904 没) / 
天正十八年寅年、駿府へ被召出、再度御見被仰付、此度関東御入国の処、江戸水悪敷、諸人及難儀、繁栄の地々無之、急ぎ彼地へ罷越、上水見立可申旨蒙上意。武具馬具御服其外道中御手当被成下、即日出立。御当地神田福田村へ参着。屋敷拝領仕、右の条々申渡候処、土地の者共一統奉恐悦。玉川筋へ觸流し、追々水筋申出、向々見分仕候処、井之頭の池清水にて里数近、水道相斗水口切開、神田領迄水掛候間、此段早々言上仕候処、為御褒美主水と申名被下之、山越と申御馬拝領仕、歩行不自由に付、御縄張中にても乗馬御免被成下。御入国後、水元被遊上覧池水を以、芝野にて御茶湯被仰付、三河餅献上し、御茶畢て宮島と銘有之候御釜被下之、唯今以所持仕、不濁様もんとと末々すみ唱可申旨蒙上意。御役儀は難相勤、平生御菓子・・・

 最も古い「享保の由緒書」でも、主水の没後百年余りを経ての提出であることを頭に入れておく必要がある。
 それはさておき、その経緯は、家康が駿河から岡崎にやってきて、江戸入国にあたって水の見立てをするよう命じた、ということになっている。家康の江戸入国は天正十八年なので、一五九〇年ということになる。また、“見立て”が土木工事まで含むのか否か、また、どの流れをどう変えたのか、期間はどのぐらいかかったのか、などということは定かではない。
 上水の名は当初は「小石川水道」だったようだ。そして、褒美として「主水」という名前をもらったことが共通している。

 もうひとつ気づくのは、八代主水までの由緒は短く、それまでの由緒書の引き写しなのだろうか、内容がほぼ同じである。これに対して、九代主水からの由緒は、内容が細かく書き込まれている。内容を見ると、たとえば、
 見立てを命じられた後、旅の手配をしてもらって神田・福田村に到着。玉川(多摩川か?)近辺まで触れをだし、飲料水に適当な水源についての情報を広く求めた。いろいろ見に行った結果、井の頭池の水がきれいで江戸にも近いので神田まで上水を引いた、などの情報が加わっている。
 もともとは「小石川上水」だったものが、ここで井の頭池を水源とする神田上水の話と一緒になってしまっているようなところがある。はたしてこうした話に根拠があるかどうかは分からない。九代主水が先祖のことを調べたりしているうちに推測が広かり、そのような話になってしまったのかも知れない。あるいは、それに類する伝承があって、それを書き加えたものかも知れない。そのあたりのことはよく分からない。
 寛政四年(一七九二)に八代主水が嘉定について訊ねられ、差し上げた『嘉定御祝儀初発由来口上之覚』がある。初代主水と菓子に関するいわれを綴ったものだが、末尾に次のような但し書きを添えている。

嘉定御祝儀初発由来口上之覚

・・・右は此度御尋に御座候處 度々類焼の砌古き書物等焼失仕候に付 代々申伝候趣奉申上候・・・


 すなわち、古い文書は江戸の大火で焼けてしまっているが、代々伝わってきた話をまとめた、ということだ。基本的なところは変わらないとしても、長い間つたわってきているうちに、話が盛られてきた可能性は否定できない。

 さて、江戸上水の開設は天正十八年なのか、あるいは慶長年間になってからのことか、確固たる史料がないせいで、研究者の見解は分かれているようだ。しかし、公式の由緒書きに「江戸御入国の節被召出候。於江戸水之手見立候様に被仰付小石川水道見立候」(享保の由緒書)と書いてあることを考えると、江戸上水の始まりは天正時代にあったと見てよいのではないだろうか。まさか、手柄をねつ造したような由緒書を幕府に提出するとも思えない。
 ここで不思議なのが、寛政三年(一七九一)に普請奉行上水方石野遠江守広通によって編纂された江戸上水の公式記録『上水記』に大久保主水の存在が一切書かれていない、ということだ。主水の事蹟が江戸幕府においてどう扱われていたのか、いささか首をひねるようなこともある。

 さらに、現在では主水のプロフィール紹介で必ず登場する以下の様な逸話が、一八〇八年の「文政の由緒書」ではじめて登場するというのも興味深い。
・山越という名の馬を拝領し、江戸城内で乗馬が許されたこと
・家康入国後に水元(井の頭池か)でお茶と三河餅を献上したこと
・そのとき、宮嶋という銘の釜を頂戴したこと
・主水を“もんと”と、濁らずに読むこと
これらは、代々つたえられてきたことを、初めて由緒書にも追加した、ということなのだろうか。宮嶋釜は実際に存在しているので、これについてはねつ造とはいえないだろう。そうなると、どれが事実に基づいていて、どれが怪しい話なのか、区別がつきにくい。代々伝えられてきた先祖の逸話なのだろうけれど、その判断はなかなか難しいところでもある。

(2018.08.29)
(2018.09.17加筆)
(2020.05.24加筆)


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