続兵家茶話(享保6/1721・国立公文書館) | 日高繁高 | 一 大久保主水先祖は大久保藤五郎と号し参州にて乃 御小姓なり或御陣に罷立足に鉄砲玉中り行歩不叶 に付て三百石の領地被召上在所へ蟄居す御不便有之 付て其妻女毎度御機嫌伺として餅を携へ参 上す此餅甚た御意に入毎度被仰下天正十八庚寅 年江戸へ御打入りに付御城近き所へ可参よし被 仰下鎌倉迄引越毎度餅を差上る是を駿河餅と 召され彼の妻拵来に付後来御菓子屋と成しかと 女の製たり則飯田丁に屋敷被下之御代々御用達 常憲公御代より男の製に成たり |
官中秘策(安政四年/1775) | 西山元文 | 御菓子屋大久保主水の事 此先祖は大久保藤五郎とて 神君三州に 御在城の時御小姓ヲ勤けり 御陣中に於て 鉄砲玉に当り終に歩行不叶夫ゆへ三百石 領地ヲ被召上在所へ蟄居せり 御不便ヲ 被下に付其妻女毎度御機嫌伺として 餅ヲ携差上けるに 此もち殊の外御意に入り 毎度被仰付然に天正に江戸御討ち入之時 御城近所へ参可申由被仰付則鎌倉川岸迄 引越此所より彼餅ヲ差上ル是ヲ駿河餅ト云彼 妻拵来に付後来御菓子屋と成しか其女の 制したる則飯田町に屋敷ヲ被下御代々御 用被仰付 常憲院様御代より男の制に なりけるとぞ |
古新奇談(成立年不明・埼玉県立図書館蔵) | 作者不明 | 御菓子屋大久保主水之事 一 此先祖は大久保藤九郎迚 神君三州に御在城 之時御小姓を勤けり於御陣中に鉄砲乃玉に中り 終に歩行不叶夫故三百石領地被 召上在所へ 蟄居せり御ふ便(びん)に被成下候に付妻女毎度御機嫌伺 として餅を携へ差上けるに此餅殊の外御気に入 毎度被仰付然に天正江戸御打入之時御城近所へ 参可申由被御付 則鎌倉より引越此所より彼餅 を差上ル是を駿河餅と云彼妻女拵へ来るに付 後来御菓子屋と成しかとも女の製したり則 飯田町に屋敷を被下御代之御用被仰付 常憲院様御代より男の製に成けるなり |
三省録(天保十三年/1842) | 志賀理斉、原徳斉 | 大久保主水が先祖は、大久保藤五郎と号す、三州にて御小姓他、ある御陣に足に鉄砲玉あたり、行歩不叶に付て三百石の領地召上られ、在所に蟄居す、御不便有之につきその妻女毎度御機嫌伺として餅をたづさへ参上す、此もちはなはだ御意に入、毎度おほせ下さる、天正十八年庚寅年江戸御打入につき、御城ちかき處へ参るべきよしおほせくだされ、鎌倉まで引越し、毎度餅をさし上げるこれを駿河餅と召され、彼妻あつかい来るにつき後に御菓子屋となりしかども、女の制たり、すなわち飯田町に屋鋪を下され御用を勤、常憲公の御ときより男の制となる。[続系家茶話] ・活字化されている史料で、末尾にあるように『続兵家茶話』の引用。 |
君臣略伝(安政五年/1858) | 服部勝全 | 大久保藤五郎忠行ハ左衛門五郎忠茂 或ハ忠武 か五男にて永禄六年 一向宗修の門徒等か叛幾参らせし時上和田に一族と共に籠 城し忠を尽し十月廿五日上和田の軍に勇を励し火炮 に当りてつゐに腰立すして上和田に寓居す 東照宮憐んて采邑三百石を賜ハる常に餅饅頭を制 する事を好んて度々献しける当時戦国にして謀(?)て 此類に毒入らん事を憚らせ給ひ忠行が献するにあらされ ハ猥りに召上り給ハす其のち天正十八年武州江戸被御 入国の時用水を伺ひて言上すへき旨命せられ忠行多摩 川の清泉を小石川筋より是を通す也と其旨(?)を委 しく言上す右の如く命せられ則主水と名を改む也 と 仰を蒙る今子孫御菓子司主水の祖也 |
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徳川実紀 | 幕府の公式記録 | 又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは その祖大久保藤五郎忠行は左衛門五郎忠茂が五男にて 三州におはしませしころ小姓勤めしものなり 一向乱のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば 己が在所に引籠もりてありしが もとより菓子作る事を好み 折々己が製せし餅をたてまつりけるが 御口にかなひしとて毎度求め給ひしかば これもこたび御供に従ひ新知三百石たまひ そが餅を駿河餅といひて 時世うつりて後はいとめづらかなるものとせり これより後彼家世々この職奉る事とはなりしなり(家譜、武家厳秘録、御用達町人来由) |
(2018.XX.XX)
追記:2020.05.24
追記:2020.05.25
追記:2020.05.26