- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


17.巷間につたわる大久保主水の経歴


 それでは、第三者が書いた資料は残されているのかというと、ないわけではない。しかし、概ね、由緒書きなどを典拠としてコンパクトにまとめたと思われる略伝がいくつか見られる。その内容はほぼ同じで、他にない情報が盛り込まれたものはないといえる。当時は、そういうものだったのだろう。

続兵家茶話(享保6/1721・国立公文書館)日高繁高一 大久保主水先祖は大久保藤五郎と号し参州にて乃
御小姓なり或御陣に罷立足に鉄砲玉中り行歩不叶
に付て三百石の領地被召上在所へ蟄居す御不便有之
付て其妻女毎度御機嫌伺として餅を携へ参
上す此餅甚た御意に入毎度被仰下天正十八庚寅
年江戸へ御打入りに付御城近き所へ可参よし被
仰下鎌倉迄引越毎度餅を差上る是を駿河餅と
召され彼の妻拵来に付後来御菓子屋と成しかと
女の製たり則飯田丁に屋敷被下之御代々御用達
常憲公御代より男の製に成たり
官中秘策(安政四年/1775)西山元文御菓子屋大久保主水の事
此先祖は大久保藤五郎とて 神君三州に
御在城の時御小姓ヲ勤けり 御陣中に於て
鉄砲玉に当り終に歩行不叶夫ゆへ三百石
領地ヲ被召上在所へ蟄居せり 御不便ヲ
被下に付其妻女毎度御機嫌伺として
餅ヲ携差上けるに 此もち殊の外御意に入り
毎度被仰付然に天正に江戸御討ち入之時
御城近所へ参可申由被仰付則鎌倉川岸迄
引越此所より彼餅ヲ差上ル是ヲ駿河餅ト云彼
妻拵来に付後来御菓子屋と成しか其女の
制したる則飯田町に屋敷ヲ被下御代々御
用被仰付 常憲院様御代より男の制に
なりけるとぞ
古新奇談(成立年不明・埼玉県立図書館蔵)作者不明
御菓子屋大久保主水之事
一 此先祖は大久保藤九郎迚 神君三州に御在城
之時御小姓を勤けり於御陣中に鉄砲乃玉に中り
終に歩行不叶夫故三百石領地被 召上在所へ
蟄居せり御ふ便(びん)に被成下候に付妻女毎度御機嫌伺
として餅を携へ差上けるに此餅殊の外御気に入
毎度被仰付然に天正江戸御打入之時御城近所へ
参可申由被御付 則鎌倉より引越此所より彼餅
を差上ル是を駿河餅と云彼妻女拵へ来るに付
後来御菓子屋と成しかとも女の製したり則
飯田町に屋敷を被下御代之御用被仰付
常憲院様御代より男の製に成けるなり
三省録(天保十三年/1842)志賀理斉、原徳斉大久保主水が先祖は、大久保藤五郎と号す、三州にて御小姓他、ある御陣に足に鉄砲玉あたり、行歩不叶に付て三百石の領地召上られ、在所に蟄居す、御不便有之につきその妻女毎度御機嫌伺として餅をたづさへ参上す、此もちはなはだ御意に入、毎度おほせ下さる、天正十八年庚寅年江戸御打入につき、御城ちかき處へ参るべきよしおほせくだされ、鎌倉まで引越し、毎度餅をさし上げるこれを駿河餅と召され、彼妻あつかい来るにつき後に御菓子屋となりしかども、女の制たり、すなわち飯田町に屋鋪を下され御用を勤、常憲公の御ときより男の制となる。[続系家茶話]

・活字化されている史料で、末尾にあるように『続兵家茶話』の引用。
君臣略伝(安政五年/1858)服部勝全大久保藤五郎忠行ハ左衛門五郎忠茂 或ハ忠武 か五男にて永禄六年
一向宗修の門徒等か叛幾参らせし時上和田に一族と共に籠
城し忠を尽し十月廿五日上和田の軍に勇を励し火炮
に当りてつゐに腰立すして上和田に寓居す
東照宮憐んて采邑三百石を賜ハる常に餅饅頭を制
する事を好んて度々献しける当時戦国にして謀(?)て
此類に毒入らん事を憚らせ給ひ忠行が献するにあらされ
ハ猥りに召上り給ハす其のち天正十八年武州江戸被御
入国の時用水を伺ひて言上すへき旨命せられ忠行多摩
川の清泉を小石川筋より是を通す也と其旨(?)を委
しく言上す右の如く命せられ則主水と名を改む也
と 仰を蒙る今子孫御菓子司主水の祖也
徳川実紀幕府の公式記録又菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは その祖大久保藤五郎忠行は左衛門五郎忠茂が五男にて 三州におはしませしころ小姓勤めしものなり 一向乱のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば 己が在所に引籠もりてありしが もとより菓子作る事を好み 折々己が製せし餅をたてまつりけるが 御口にかなひしとて毎度求め給ひしかば これもこたび御供に従ひ新知三百石たまひ そが餅を駿河餅といひて 時世うつりて後はいとめづらかなるものとせり これより後彼家世々この職奉る事とはなりしなり(家譜、武家厳秘録、御用達町人来由)

上記の小伝を一読して分かるが、どれも内容はほぼ同じである。最初に書かれたものがどれかは分からないが、その引用丸写しといってよい。おそらく由緒書を元に書かれているが、由緒書と異なる部分もある。

小姓だった、という表現は、文政の由緒書(1808)以降に「権現様江幼年より奉仕」と書かれるようになったからかも知れない。いまのところ、それ以前の由緒書には、「幼年より」という文字は見られない。

鎌倉(神田の鎌倉河岸か)に越してきた、という表現は由緒書には見られないものだ。由緒書では概ね「福田村」になっている。すでにその地名が用いられなくなっていて、当時の聞き慣れた地名にしているのかも知れない。

また、戦国時に妻が菓子を献上したとなっているのも由緒書との相違で、一連の小伝の特徴だ。しかし由緒書では、下記のように一貫して藤五郎が餅をつくるのを好んでいた、ということになっている。
・『享保の由緒書』(1719)
「藤五郎義常々餅拵候事好キ候而於三河切々餅御用被仰付依之御菓子之御用被仰付御菓子拵上げ候」
・『家伝史料(宝暦の由緒書)』(1755)
「藤五郎常々御菓子拵候事好き申候間、於三河節々御菓子の御用被仰付候」
「元和三巳年病死仕候。其以後御菓子御用同人後家に日宝と申尼に被仰候」
「御菓子御用絶不申候様被仰付、十右衛門養子仕候」
・『御用達町人由緒』(1767)
「三州居住仕、常々菓子を好て自身に作之事達上聞、御菓子被仰付献上仕候」
「右主水死去以後、御菓子御用の儀、後家日宝と申尼に被仰付」
「元禄元辰年迄女子に御菓子仕上ヶさせ来り申候処、御賄頭設楽七左衛門殿時分、女子相止メ男にて御菓子拵上申候」

また、飯田町の屋敷について言及しているが、屋敷拝領は元禄14年(1701)のことなので、それ以降に書かれたものと考えられる。

目立つのが『君臣略伝』が、「此類に毒入らん事を憚らせ給ひ」と、毒について言及していることだ。これは、『文久の由緒書』(1861)に
「御陣中之御供御免被成下御菓子奉行相勤三州以来乍恐都而 御上ノ物 御試被 仰付」と書かれていることによるものなのだろうか。
さらに、『君臣略伝』は「多摩川の清泉を小石川筋より是を通す」と書かれているのだが、「玉川筋」云々という表記が登場するのは『文政の由緒書』(1808)に、水脈について「玉川筋江触流追々水筋申出向々見分仕候処井之頭之池清水に而里数近水道相斗水口切并神田領迄水掛候」とあるのが最初なので、それ以降のものだろうか。また、「小石川筋」に触れているのは『御府内備考』『参考落穂集』『武蔵名勝図絵』『江戸砂子』など当時の地誌に記述があるので、それに基づいたものか。小石川水道という呼称がまだ存在していたのか、記憶の中のものになっていたのかは分からないが、大久保主水と小石川は不可分だったと考えてよいのかも知れない。

『徳川実紀』は幕府作成の公式資料だが、巷間流布する地誌や由緒書などを参照・編集したもののようで、とくに新たに調査したものではないと思われる。



その外では『駿国雑志』巻之三十九に大久保主水の経歴が詳しく掲載されている。この書は国立公文書館のホームページの解説によれば「駿河国(静岡県中部)の地誌。文化14年(1817)に駿府加番を拝命した阿部正信は、1年間の在任中に資料の収集や現地調査に着手し、江戸に戻ったのちも調査研究を重ね、天保14年(1843)に全50巻の本書を完成させました」とある。阿部正信の文中にも「傳云」「武徳編年集成云」などとあって既存の文書を収集・編纂したものだ。阿部正信の引用した「傳」はおそらく文政の由緒書、『武州久良岐郡金沢之郷釜利谷福松山宇賀山王権現社略縁記』などを参照したのだろう。したがって、既出の情報の範囲をでるものではないと考えられる。
ところで、『駿国雑志』では主水の妻の名を「伊可」としているのだが、これまで参照した由緒において、当該漢字をあてたものは見当たらない。『駿国雑志』は活字本としていくつかの図書館に所蔵されているが、原本や写本についてはいまだ確認はしていないのだが、おそらくその過程で漢字があてられてそうなったのではないかと思われる。ちなみに、由緒書きなどでは、「いか」とひらがなである。(「か」は「可」をあてているものもあるが、ひらがなに近いくずしかたである。
Wikipediaにおける大久保主水の経歴については多くを『駿国雑志』に寄っているようなので注意が必要である。

(2018.XX.XX)
追記:2020.05.24
追記:2020.05.25
追記:2020.05.26


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