江戸町水道の事
見しは昔 江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は十二年以前まで大海原なりしを、当君の御威勢にて南海をうめ陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへども井の水へ塩さし入、万民是をなげくと。君聞召、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。(以下略)
これを読むと、江戸が埋め立てられた造成地で、井戸を掘っても塩辛い水しかでなかったことが分かる。一般には「神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ」という部分が「水道」だと考えられている。ただし、『慶長見聞集』に、慶長十九年(1614)と記されているものがあるので「十二年以前」を慶長八年(1603)と考え、それ以前に水道はなかった、とする説もあるようだ。しかし、慶長十九年以前に書かれた文章がそのまま使われている可能性もあるので、断定はできない。また、大久保主水や、主水の関わった小石川上水についての言及がないが、小石川上水は江戸市中に上水を給水するためのものではなかった。したがって、一般に知られていなかった可能性もあるし、または筆者が省略したなどの可能性もある。要するに、江戸市中への給水(=神田上水)が慶長時代にできあがった、ということだけが分かる史料だと思う。
(2018.03.07)