- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


<よく引用される史料>

『御府内備考』 --- 過去の文献を引用しているだけか?


 『御府内備考』は、幕府が昌平坂学問所に命じて編纂させた、江戸府内の地誌を詳述した書物である。文政十二年(一八二九)と成立時期は遅いが、豊富な史料を引用して江戸の様子が描かれている。ここでは、『慶長見聞集』がいうところの「神田山の下を流れし水」について、

此流は則今の神田川なるべし。たヾ当時は今の柳原堤の内を流れ、お玉ヶ池の方を歴て、浅草川に落し如くおもはる。


としている。また同じく「神田の明神山」については、次のような注釈を加えている。

今の昌平橋辺をいふなるべし、此頃既に神田明神今の処に移りしとみゆ。旧地神田橋には山ありし事所見なし。


 これは、神田明神は昌平橋、つまり現在のJR御茶ノ水駅西口南側の駿河台(つまり現在の神田川の南側)にあったが、それが湯島(現在の神田川の北側)方面に移転していた、という類推だ。しかし、神田明神の移転時期は、『慶長日記』によると元和二年(一六一六)だという(若田部功『神田上水の開設をめぐる問題』/『神田上水石垣遺構発掘調査報告書』第三章第一節(一)/一九九一)。すると慶長年中にはまだ移転していなかったということになり、話が少しややこしくなる。
 また、『武江年表』(斉藤月岑・嘉永三年/一八五〇)によれば、「神田上水を闢かれし事は、其の始め慥ならず」であり「『武徳編年集成』の説は妄なり」と言っている。そして、大久保某が天正中に多摩川の清泉を小石川から引いたのは神田上水ではなく、『慶長見聞集』のいう神田明神山岸の水と山王山本の流れの二水が、神田上水だと主張している。こうなると話の蒸し返しで、では大久保藤五郎の小石川から引いた上水は何なのだ、と問いたいが、残念ながら『武江年表』はそのことには触れていない。
 また『御府内備考』は、『武徳編年集成』が大久保主水の由来によって天正十八年から上水があった、と書いていることは誤り、と主張している。その根拠を『慶長見聞集』の記述に依拠し、「慶長頃まで江戸上水のあらざるよしは、前に記せる「見聞集」によりてをしてしらる」と三浦浄心の説を採っている。
さらに、家康の江戸入国の祭に内田六三郎が「霊水の蹟を堀穿ちしに、四五尺にして土砂を吹、清水涌出たり」という『上水記』の記述を引用したり、「此の上水(神田上水のこと)古くは小石川上水とも称せしにや」と書いているにもかかわらず、その小石川上水の成立については触れていなかったり、引用文献は多いが整理されていない。要は、『御府内備考』も過去の文献をあれこれ引用しているだけで、一次資料ではないのだから、たとえ江戸時代の史料であるとしても鵜呑みにはできない、ということだ。はっきりした一次史料は、ほぼ『慶長見聞集』に尽きる。あとはその解釈で、あれこれ入り乱れている感じなのだ。

こうしたことを受け、『東京市史稿・上水編一』では、「・・・上水を増設して新市街にも及ぼしたる者の如く」見えるとしており、「神田山岸の流」についても『慶長見聞集』の、「江戸に古へより細き流たヾ一筋あり。此神田山岸の柳原より出る也」を引用して、江戸川のことだろうとしている。ここでいう江戸川とは、東京と千葉を分かつ江戸川ではない。現在の神田川の、文京区関口にある大滝橋から外堀辺りまでの流れを、かつて江戸川と呼んでいたのである。その名残は近くの江戸川公園や地下鉄有楽町線江戸川橋駅に残っている。また「山王山本の流」についても、『往古江戸図』に「ためいけ。江戸すいとうのみなかみ」と記されているのは、このことだとしている。
 江戸・東京の水道に関する一般書として古典的な存在となっている『東京の水道』(佐藤志郎・都政通信社・昭和三十五年)でも、『東京市史稿・上水編一』を支持し、次のようにまとめている。

この神田山岸の流れというのは大久保藤五郎の見立てた上水を指し、山王山本の流れというのは赤坂の溜池に入っていた流れと思われる。寛永年間の江戸図の中には溜池のところに「ためいけ。江戸すいとうノみなかみ」と記してある。この溜池の水は、後に玉川上水が通じられるまで江戸の西南部の住民がこの水を用いていた。この水が足りなくなって玉川上水が引かれ、この水にかわって玉川上水が江戸西南部に給水することになった。


また、『上水から見た江戸の都市計画』(波多野純・『江戸東京学への招待(2)都市誌編』所収)でも、

「神田明神山岸の水」は小規模な上水でしょうが、神田上水の前身と考えられます。「山王山本の水」は、寛永年間の「武州豊嶋郡江戸庄図」の溜池部分に「江戸上水之水上」とあるように、玉川上水の前身と考えられます。つまり、小規模な上水網が建設され、その水源では不十分になったとき、神田上水には井の頭池の水、玉川上水には羽村から多摩川の水が導かれたのだと思います。


と、より具体的に解釈して記されている。「神田明神山岸の水」は、確かにあった。この上水に大久保藤五郎が関与したのかどうか、また、これが「小石川上水」と呼ばれるものなのかどうか。問題はそこに尽きるが、断定するための根拠に乏しいということになる。
『慶長見聞集』の三浦浄心が、「神田明神山岸の水」の成立過程について、知っていて書かなかったのか、とくに知らずにいたのか。そこが問題となるわけだ。

(2018.03.07)
(2018.03.08 加筆)

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