- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


19.これまでに知られている史料について


大久保藤五郎が小石川上水に携わったのは、ほぼ間違いないのではないか。由緒書きも町奉行を通じて幕府に提出しているものであるし、それが事実と異なるなら何らかの咎めを受けるはず。「享保の由緒書」が初代主水没後百年余り後のものだとしても、神田上水に関わったという話が代々受け継がれてきたことについては幕府側も承知していたと見るのが自然だろう。
 
また前項で触れた「江戸の水道と宮島の釜」(『益田孝雑話』) では「歴代の公方様が代替りの始めに必ず此の釜を御覧なさることになつて居て、其の時の記録が皆ちやんと此の箱の中に入つて居ます。」とあり、釜と一緒に残されている『宮島御釜記』には実際に「此御釜のこと執政参政の方々聞せ給ひて九代主水忠宜に文化七年六月七日参政水野出羽守忠成朝臣より絵図をまゐらすべき旨仰下されぬ」と書かれている。上水のことが根も葉もない話なら、このように語り継がれることはなかったように思える。

とはいえ、江戸の上水については分かっていないことは多い。いつ、誰が計画をして、指揮を執り、普請事業をしたか、その正確な記録は分かっていない。というわけで、神田上水に関しては様々な推論ある。それらにひととおり触れておくことにしよう。

江戸の上水についてもっとも詳細な考察を加えているのは、『東京市史稿・上水編一』である。『天正日記』や『御用達町人由緒』など、史料を広く求めており、その考察を超えるものはいまだでていないといってもよいかもしれない。しかし、『東京市史稿・上水編一』の記述をそのまま鵜呑みにしてしまうのも寂しいので。引用されている主な文献の原典にとりあえず当たってみた。

ただし、これらについてはすでに多くの書物で検討されていて、Web上でもWikipediaの「神田上水」の項で詳述・紹介されているので、そちらも併せて参照されることをお勧めする。

『慶長見聞集』 --- 慶長時代には水道があった。

『御府内備考』 --- 過去の文献を引用しているだけか?

『武蔵名勝図会』 --- 天正・文禄時代の成立を示唆。

『上水記』 --- 大久保藤五郎以外にもいた、神田上水の開発者?

ちなみに以下は当時の元号で、江戸時代は慶長八年(1603)から始まっている。
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永禄(1558-1570)
元亀(1570-1573)
天正(1573-1593)
文禄(1593-1596)
慶長(1596-1615)  ---  江戸幕府(1603-1867)
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(2019.03.07)

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