- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


<よく引用される史料>

『武蔵名勝図会』 --- 天正・文禄時代の成立を示唆。


 文字として天正時代の成立を示唆している史料に、『武蔵名勝図会』(文政六年/一八二三に昌平黌に献上、天保五年/一八三四上梓)がある。八王子千人同心の出である植田孟〓の筆によるもので、絵入りの観光案内書の類である。これも幕末期に史料を渉猟して成立したものだが、なかに「上水の濫觴」の項目があり、以下の様に書かれている。

「上水の濫觴」

御入国後、天正文禄の頃御目論見在て、慶長年中より水道出来、神田上水と號する。其所謂は編年集成にも載する所なり。大久保左衛門五郎忠茂が五男にて大久保藤五郎忠行、一向宗乱の砌、甚武勇を励し、火炮に当り、終に腰立づして、三州上和田に寓居せしを憐み給ひ、三百石を賜ひけるが、此人常に餅饅頭を製する事を好み、度々公へ献じけると也。御入国後、江戸にて宅地を賜ひ、御菓子を製し差出し可申旨被命。然るに江城辺水不宜旨申上げるに依て、用水を伺ひ言上すべき旨被命ける所、忠行此池(井之頭池)水の流、江戸川へ落入水は源泉清潔たるゆへ、此水を小日向筋より引揚て小石川辺を通し、神田へ至り、忠行が宅地近辺を通し、御用水に成すべき旨を委しく申上げるより、今の水道町大洗堰より堀割御用水となり、最初神田御用水より初りしゆへ、名附て神田上水と號す。藤五郎忠行に其水利を得たるを以て、是より大久保主水と名乗るべき由鈞命あり。干今神田に住し、終に子孫御用菓子司とはなりけり。住居の辺を名付けて主水河岸と唱ふ。


 一読して大久保主水の由緒書に似ているのが分かる。文脈がそっくりで、登場するエピソードや、その順番もそっくり。大半を大久保家の由緒書に依っていることは間違いない。若田部功は『神田上水の開設をめぐる問題』(『神田上水石垣遺構発掘調査報告書』第三章第一節(一)/一九九一)で次のように述べている。

「神田上水の開設をめぐる問題」

『武蔵名勝図会』は後代のものであるが、(略)天正年間の大久保藤五郎の開設とこの史料3の下線部(『慶長見聞集』の「神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ」のこと)を意識して、「慶長年中より水道出来」と記したであろうと思われる。ただ、『天正日記』が幕末頃の偽作であるとするならば、『武蔵名勝図会』の編者は、それを引用したと思えず、「天正文禄の頃、御目論見在て」と書いたのは、他に信憑性をもった史料をもとに書いたといえよう。そうした場合逆に『天正日記』の大久保藤五郎による上水施設の開設記事は信憑性をもったものとなるであろう。


 しかし、植田孟〓が大久保主水由緒書きに依拠して『武蔵名勝図会』を書いたすると、若田部のいう信憑性の高い史料は大久保家の由緒書ということになり、新たな史料への可能性という予感はあまり感じられない。
 ただし、文中で述べている井の頭池を水源として江戸川に流れ落ちる水を小日向から引っ張って小石川から神田へと引き回すという下りは、由緒書にはないものだが、植田孟〓がなにを根拠に書いたのかは、定かではない。また、もともと由緒書では使うことを避けているような神田上水という名称が使われている。これは、『武蔵名勝図会』の編者の主観が混入しているからであろうと思われる。

(2018.03.08)

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