承応元年(一六五二)は四代将軍家綱の治世で、玉川上水が通水したのが承応三年である。この時代まで水道はなかったと書いているが、すでにお堀や溜池の水を樋を通して給水していたようだ。ただし、玉川兄弟はこれを水道とは認めていない、ということなのだろう。承応元壬辰年迄御城内并御城下御武家様方共上水道無御座候ニ付下々にては御堀又は溜池抔之水を樋にて仕掛取用申候由にて御不自由に御座候・・・
・・・先祖六次郎儀慶長年中御入国之砌神田上水開発者にて・・・
また別の願書では次のように書いている。
しかし、こうした内田茂十郎の願書の内容について、『上水記』(古典籍)の編者は次のように「言い伝えなので証拠はない」とコメントしている。私家筋之儀は慶長年中
御入国砌御当地飲水不自由にて所々井水相求候処濁水或潮気鉄気等有之難用
立一統難儀仕候二付近在之川水も曳入候御評議も有之所々川之水性御試御座候処是又潮気有之旱続候節は濁水仕旁以難御用立其砌私先祖内田六次郎と申者武州玉川辺之百姓仕能在御注進奉申上候趣有増左之通二御座候
右茂十郎か書面の中に先祖六次郎往古頼朝公武蔵野通行之時洪広たる平杭飲料無之供奉の面々行疲たる折地中より霊水湧出たる所を存右の辺の土地を穿試たるに水気甚敷故鍬を以四五尺鑿たるに地底より土砂を吹上るによりて堀広け大池に開発し水量丈夫に貯置御府内へ引取潤沢に上水出来ぬべきよし奉行所に達し其後 神君様御鷹野 御成之節彼地の案内被仰付入 上覧たるよし也
たゝ彼ものの先祖より云伝たるよしのみにて証拠なし
また、神田上水、玉川上水の始まりについて、『上水記』(古典籍)の編者は、次のように書いている。
玉川神田両上水其はしめいつれか前後なるおほつかなし 庄右衛門清右衛門の書面 茂十郎か書面ともに此記の第八にしるして後の考をまつ
端的に言えば、よく分からない、である。
一方で、大久保主水の由来について『上水記』(古典籍)一言も触れていない。書き上がったのが寛政三年(一七九一)なので、すでに享保四年(一七一九)の由緒書や明和四年(一七六七)の御用達町人由緒は提出されていたはずで、それを無視しているのが不自然にすら思えてくる。普請方に残されていた資料をもとにしているので、あえて採用しなかったのだろうか。にしては茂十郎の頼朝を引き合いにした神話は記録に留めている。大久保主水については意図的に排除した、と思えなくもない。なにか思惑でもあったのだろうか。
大久保主水の方は由緒書などによって、家康の江戸入国に先立つ天正十八年(一五九〇)に「小石川水道」を見立てたと主張している。内田茂十郎は、同じく家康の江戸入国のとき(慶長年間?)に先祖六次郎が玉川を水源に神田上水を開発したと主張している。玉川兄弟は、玉川上水以前に「水道」はなかったが堀や溜池の水を樋で給水していた、と書いている。それぞれ、自分たちの手柄を優先しているのだからそうなるのだろう。で、『慶長見聞集』は、「神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ」としている。
とはいえ、玉川兄弟と『慶長見聞集』の記述はなんとなく似ていて、大久保主水は小石川上水で内田六次郎は神田上水と住み分けているようにも思えてくるのだが・・・。
さて、『上水記』(古典籍)でフィーチャーされている内田六次郎だが、この人物については他の文献にも登場するので、それを見ていくことにしよう。
まず『御府内上水在絶略記』(××年・一×××)だが、これは原典をあたることができず、『東京市史稿・上水編一』からの孫引きになる。これによると、家康入国の時、かつて鎌倉幕府軍が武蔵野を行軍中に霊水が湧き出た場所を内田が言上したところ清水が湧き出たのを上水の濫觴としている。つまり『上水記』の内田の願書の内容と同じである。
つぎに『郡村誌』(××年・一×××)だが、これも原典にあたることができず、同じく『東京市史稿・上水編一』からの孫引き。
慶長十一年丙午徳川家康池辺ニ放鷹シ、池水ノ清潔ナルヲ賞シ、城内御茶ノ水ト命ジテ、上水見立人大久保主水並内田茂十郎ナル者、水道ヲ江戸城ヘ通、余水ヲ府下人民ノ呑水トナルニ因テ、神田上水ト称ス
ここでは上水の見立て人を大久保主水と内田六次郎(内田茂十郎とあるのは、六次郎の間違いか)を併記していて、二人が選んだ水源を「清潔」と判断し、江戸城にいに水路を引くように命じた、ということだろう。『郡村誌』がいつ、誰の手によって書かれたのか定かではないが、大久保主水と内田六次郎の二人の名前を出しているのは非常に興味深い。
で、ここからは想像である。
上水の見立ては家康から大久保藤五郎に課せられた。藤五郎は江戸に馳せ参じるが、江戸のことは右も左も分からない。そこで地元民の代表を集め、話を聞いた。地元の代表は、地元民から情報を収集し、藤五郎のもとに寄せた。由緒書にもあるように、清水を求める旨の触書をだしたのかも知れない。呼び集められた地元民の中に内田六次郎がいて、彼は井の頭池を押した。しかし、まずは城中への引水が優先され、内田も参加して小石川の流れに手を加え、城中に引き込んだ。これが小石川上水。
同時に城下一円に引水する神田上水計画がスタートしていたが、藤五郎は家康への忠義はあっても江戸建設にはあまり興味がなく、あえて手を引いて内田六次郎に後を任せた。水源は六次郎が主張した井の頭となった。藤五郎は、井の頭池を実地検分したかも知れないし、運ばれてきた水を検分したのかもしれない。あるいは、まったくタッチしなかったのかも知れない。
坂田正次『江戸東京の神田川』(論創社・一九八七)では、「内田六次郎の提言によって大久保主水が上水工事の指揮監督を行い神田上水を完成させたとも考えることができよう」としているが、こういう考え方もあるだろう。
『東京市史稿・上水編一』に取り上げられている文献がつたえるところによれば、小石川上水すなわち神田上水の経営は、家康が入国当時に始まったようだ。『天正日記』『御用達町人由緒』などは、入国当時のことだとしている。『武蔵名勝図会』は、天正文禄に企画され、慶長になって完成したとしている。慶長八年に上水工事があったという記事も『慶長見聞集』にあるが、それ以前に上水がなく、慶長時代に上水が完成したという確たる証拠にもならない。
上水の起源は家康入国時の天正時代にあるという説をはっきりと否定するだけの資料は、いまのところない。
(2019.03.15)