- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
20.神田上水か、小石川上水か、小石川水道か?
それにしても、気になることがある。
八代大久保主水忠英(寛政二年/一七九〇没)はその由緒書のなかで、先祖が開発した上水について一貫して「江戸水」あるいは「小石川水道」と表現している。十代忠記(万延元年/一八六〇没)の由緒書きでも上水名を書かないか「小石川水道」となっている。どちらにも神田上水という言葉は一切登場しない。
この辺りのことも含め、小石川上水は神田上水のもとになった、と解釈されているのだろう。しかし忠英や忠記の時代には神田上水も玉川上水もすでにあったはずで、小石川水道が神田上水へと発展したとするならば、由緒書でそのことに触れてもよいのではないだろうか。たとえば、「いまは神田上水として知られる小石川水道に携わった」という表現があってもよいように思うのだ。とくに、由緒書などは家系の自慢話を積極的に採り入れる筋合いのものだ。にもかかわらず、そのように書かれることなく八代忠英はあくまで「小石川水道」としている。
小石川水道が神田上水に発展したのは自明のことだから言及していないのか。あるいは、小石川水道と神田上水は、直接のつながりがないのだろうか。しかし残念ながら、小石川水道の普請記録は残っていない。また、小石川水道が神田上水に発展したという資料もない。さらに、神田上水の普請が開始されたという資料も見当たらない。いつどのようにして上水が整備されたのかということについて、正確なところは分かっていない。
では、神田上水という言葉が公式文書に登場するのは、いつのことだろうか。それを探るには、江戸時代の法令集である『江戸町触集成』を見るのが手っ取り早い。すると寛文五年(一六六五)に左のような記述が発見できる。これが、神田上水という名称が公式文書に登場する最初である。
一、神田上水道之御普請、入札ニ被仰候間、望之者ハ今日ヨリならや所江参、注文写入札可仕旨、町中可被相触候、以上
巳ノ六月廿八日
同時期に、小石川水道という呼び名が登場する史料がある。若田部功が『神田上水の開設をめぐる問題』(『神田上水石垣遺構発掘調査報告書・第三章第一節(一)』/一九九一)の中で指摘している『長沼家譜』(『田島町史・第五巻』である。そこではこのように書かれている。
万治二年雄山公時、為江戸番、三年会治小石川水道、為普請奉行、
万治三年(一六六〇)の時点で、小石川水道という呼び名が普請事業の中で使われていた証拠である。『江戸町触集成』のわずか五年前のことであるが、公的な名称として小石川水道というものが存在したということの証である。若田部は「神田上水は万治三年(一六六〇)においては、小石川水道と呼ばれていたと考えて良いのではないだろうか。それでは神田上水が完成した後においても、小石川水道と呼ばれていたと仮定すると、そこで問題となるのは、大久保藤五郎によって開設された江戸水道=小石川水道や神田山岸の水、つまり同じ名称がつけられていた草創期の上水施設との関係である。単に小石川という地名がついているというのではなく、初期の上水施設ができてから七〇年後においても、同じ名称がつかわれるというのは、そこに何らかの関連が想定できるのである」とし、「神田上水は初期の上水施設を発展的に完成させた上水施設と位置づけることができよう」と結論づけている。
はたして、こう結論づけていいものかどうか。なおも疑問は残る。
なぜなら、八代主水忠英や十代主水忠記の由緒書にも「小石川水道」という言葉が見えるからだ。八代主水忠英は一七〇〇年代の半ばから後半にかけて活躍した人物だ。十代主水忠記は一八〇〇年代の前半の人だ。彼らが百年から百五十年以上も前に消えたはずの「小石川水道」という言葉を公式文書に書き込んでいるというのが、どうも合点がいかないのだ。「小石川水道」という言葉は死語なのか。それとも、れっきとした生きている言葉だったのか。一六六〇年近辺を境にして小石川水道が神田上水に変わった、小石川水道が神田上水に発展したと断言してよいのだろうか。
江戸時代における上水道、水道などの言葉と、その意味するものの違いについて指摘している研究に、『江戸時代の上水道の文献・史料による研究』(神吉和夫・『建設工学研究所報告』二十八号所収・一九八六)がある。この中で神吉は次のように主張している。
江戸時代の(人工的な流路)施設の名称には、水道、上水、用水(御用水)、水樋などが見られ、各施設は飲料水、雑用水、灌漑用水、防火用水、城濠用水、泉水(庭園の池)用水、排水など多目的に使われた。また、『大漢和辞典』によれば「水道」という言葉は中国の古典に登場しており、水の流れる道のことを指していたらしい。日本でも水道=上水とは考えにくい。玉川上水も灌漑用水や城で使う防火用水などにも使われている。「上水」という言葉が飲料水を意味するのなら上水=上水道だが、上水は必ずしも上水道を意味していない。さらに、「上水道」という用語は近世文書での使用例は極めて少なく、歴史用語としては明治以後の近代的な水道を指す言葉である。そして「水道」は上水だけではなく下水をも含む、より広義な「みずみち」の意味をもっている。
この、神吉の主張を裏付けるように、『上水記』(寛政三年・一七九一)では、「上水」という言葉について次のような定義を明確に加えている。
井を掘にたやすからぬ所、この水を井に引て士農工商朝夕使とす、これを上水といふは汚水を下水といふに対しての名なるへし
つまり、下水ではない水のことであり、泉水や用水、城濠用水、そして、飲料水をも含む水のことを指していっている。しかし、この中に私たちがもとめる小石川水道はどのようなものだったのかという答は見つけにくい。水道という言葉の意味が広すぎて、なにを目的としたものなのか、言葉から探ることが困難だということが再認識されたにとどまっている。
ところで、この神吉の研究の中に興味深い事実が散見できる。ひとつは楠正成が立て籠もった赤坂城に、樋を用いた給水施設が『太平記』に書かれているという指摘だ。それは、『太平記』(巻六・人見本間抜懸の事)の部分である。
三方が谷、一方が平地で、近くに山がないところにある城を攻めている。雨も降らず、近くに水があるように見えないのに、火矢を射ても水鉄砲で消されてしまう。これは地面の中に樋を埋めているに違いない、と城につづく山裾を掘ってみると・・・
案の如く土の底に二丈余りの下に樋を伏せて側に石を畳み、上に真木の瓦をうつふせて、水を十町余りの外よりぞ懸けたりける。この揚水を止められて後、城中に水とぼしくして、軍勢口中の渇忍びがたければ・・・
なんと、六メートルも深い地中に石の壁と板に守られた管が埋められていたという。しかも、総延長は十町、千メートル余である。暗渠そのものであるこの給水設備は、「水の手」と中・近世の城郭で呼ばれているものだ。『太平記』は応安(一三六八〜七四)に書かれているので、この時代に小規模とはいえ暗渠による給水設備がすでにあった証拠に他ならない。
もうひとつは、中国・西安で一四六五年に煉瓦造りの暗渠上水道が建設されていたといいう指摘をしている(『菽園雑記』)。この構造が市街幹線を石樋とした玉川上水や暗渠を石樋とした水戸笠原水道に構造が似ており、河川を水源とした暗渠の上水道に影響を及ぼしたのではないかとしているのだ。
さらに『日本水道史』(日本水道協会編・一九六七)の中で言及された仮説について紹介している。『日本水道史』の主張と、それに対する神吉の見解を明確にするために、引用部分も含めてここに紹介する。
「ところで、ここに疑問を生ずるのは『天正日記』には「江戸水道のことうけ玉はる」とあってこの時既に水道という文字を用いている点である。水道という言葉が水の供給施設として一般に通用していたとすれば、その時より以前に水道の施設がどこかに存在していて水道と呼びならしていたのではあるまいかという疑いが生ずる。また水を暗渠で導く構造をこつ然として、この時に思いついたとも考えられないのである」
と、「水道」を水の供給する施設、水を暗渠で導く構造とした上で、水道の起源が不明であることを指摘している。続いて、(1)家康の領地であった三河、駿河あたりに小さな水道があったのではないか、(2)外人宣教師の西洋事情談の中に水道も含まれてヒントを与えた、とする推論を論証を加えずに提示している。(略)「水道」という言葉が何を意味するかは江戸時代の上水道を考える上で極めて重要と思われるのであるが(略)深く追求していない。
神吉は『日本水道史』の記述に対して不満を顕わしているが、それは置いておく。これら神吉の指摘に加え、こんな事実も付け加えてみよう。『水と暮らしの文化史』(榮森康次郎・TOTO出版・一九九四)に、こんなことが書かれていた。
古い時代に水を引用した例は最近の新聞記事にも見ることができます。平成五年二月、広島県千代田町舞綱にある戦国時代の寺、万徳院遺跡を発掘調査した県教育委員会が、一六世紀後半の上水道を発見したことが報道されました。これによると、約四〇メートル離れた谷川から境内へ直径約六センチの竹を木製の継手によってつなぎ、石組みされた四メートル四方の水溜めへ引用していました。
さらに、冒頭で言及したように、家康は小田原早川上水を知っていて、それを江戸にも設置しようと考えた可能性もある。
これらの情報や推論を並べ替えると、いかにも興味深い推理が成り立ちそうではないか。
銃弾を受けて上和田に引きこもっていた藤五郎。戦で貢献できない無念は、饅頭や菓子をつくって献上することへと移っていた。うまい饅頭をつくるには、清水が欠かせない。しかし、歩くことのできない藤五郎は、自由に水をくんでくることができない。そこで考えたのが、谷川から水を引くこと。谷川からの高低差を利用すれば、いつでも清水が利用できるのだ。そこで家来の手を借りて地勢を検分し、計画図面を描く。こういったことは、城攻めなどで経験済みだ。樋にする竹樋などを選ぶと図面にしたがって地中を掘り、樋を継手で巧みに継いで家まで水が流れるようにした。おかげで谷川まで水くみに行く手間も要らなくなった。そして、饅頭をつくることに全力を傾けた。やがてそのことは家康の知るところとなる。やがて家康は江戸へ転封となる。江戸入国にあたって水道設備が必要となるが、適任者は・・・というときに真っ先に顔が浮かんだのは藤五郎。こうして藤五郎は家康に先だって江戸へ駈ける。そうして水源を求めると、そこから城内へと水を引き回す計画を立てた。このときに、過去の経験や中国の暗渠の情報などが役に立った。
以上は勝手な夢想だ。史料もない。遺物もない。論証のしようもない。
それにしても、神田上水へと発展するような上水設備が一朝一夕にできるはずもない。試行錯誤を繰り返しながら導入したというのでは、江戸市中に上水網を張り巡らすといった壮大な計画はできるものではないだろう。正確に地勢を見極める判断力。確かな測量技術。こうしたものがなければ、自然落下という流れを利用しての上水施設などというものはできるものではない。
もちろん、それまで培ってきた用水、潅漑設備などの知識と技術が投入されたことは間違いない。しかし、そうした単純な構造ではなく、複雑で緻密な流路をもつ上水が、そう簡単にできるわけでないのは明らかだ。さまざまな技術をもつ人材をまとめあげ、計画を実行に移すために藤五郎が指揮を執った、と考えるのは無理のあることではない。また、そうやって想像してみることは、いささか楽しくもあり、面白いことである。
(2019.03.16)