- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


21.小石川についての考察


■まずは小石川上水という存在について

江戸時代の史料で小石川水道または小石川上水という名称で紹介されているものに、どういうものがあるか見てみよう。
享保年間(一七一六~三五)に成立し、江戸の様子を描いた書物に『事蹟合考』(『東京市史稿』では『参考落穂集』という名称で引用されているが文章が若干異なる)がある。大道寺友山の『落穂集追加』をもとに、柏崎永以源具元が加筆再編集したもののようだ。上水は以下のように触れられている。

江戸下上水は、神君御代、御吟味ありて、当世御菓子師の先祖大久保藤十郎に被仰付、水脈考へ注進せしめ、江戸御城内のこらず、ならびに日本橋より金杉橋を限り、木挽町及び築地に多摩川の水をかけらるゝは、正保年中に始まるなり、此節は、日本橋、京橋を限るなり、芝口辺、木挽町にかゝるは、それより後、明暦元年のころなり、又、江城西北、落合、中野等の西北、猪頭の弁天の池水を引て、小石川水戸家の本館にかゝり、水通路の北海岸を限り、両国橋の内をひろく廻らす、これを小石川上水といふ、また常憲公(五代綱吉)の御代のころ、板橋の西方、練馬の南の方、石神の池の方より、本郷および柳原筋にかけられし水流を、千川上水といふ、これ、文昭公(六代家宣)御代以来、停止せらる、又、本庄北のかた、綾瀬川といふ水流を、業平橋筋に引て、また本庄中に懸られしを、白堀上水といふ、


これに従えば、江戸の上水は大久保藤五郎が最初に手がけ、江戸城から日本橋、金杉橋まで上水を供給した。さらに拡張し、木挽町および築地まで敷設されたのは正保年中(一六四四~四七)のことで、現在では日本橋、京橋まで及んでいる。・・・としているが、玉川上水の江戸市中への通水は承応三年(一六五四)なので、神田上水のことを言っているのだろうか。また、芝口、木挽町は明暦元年(一六五五)となっているが、これも玉川上水ではないと思われる。
 大久保主水は「水脈考へ注進せしめ」たという存在として認識されていて、それとは別の文脈で、井の頭池から水戸家をへて両国橋までの領域をまかなったのが小石川上水、と書いている。井の頭池の水を水脈とするのは神田上水というのが現在の考えだが、これが小石川上水となると、話が混乱してくる。たんに筆者が神田上水と小石川上水と取り違えているだけなのだろうか。小石川上水の成立時期が書かれていないので、ますます悩ましい。
八代主水忠英や十代主水忠記が由緒書の中で「小石川水道」という表現にこだわっていることも気になる。また、九代主水忠宜から、「井の頭を水源とした」水道を開発という話になっているのは、この『事蹟合考』あたりを参考にして由緒書をふくらませたのだろうか。

『慶長見聞集』のいう「神田明神山岸の水」は、『事蹟合考』のいう「江戸城から日本橋、金杉橋まで上水を敷設」されたもので、これに藤五郎が携わったのか? 
由緒書かこだわる「小石川水道」は、小石川上水とは違うのか? 謎は深まるばかりだ。

また奇妙なことに、『事蹟合考』に神田上水という言葉が登場しない。寛文五年(一六六五)に神田上水という名称がすでに町触に登場しているにもかかわらず、である。とはいえ『事蹟合考』のいう小石川上水の流路は、後に神田上水として知られる上水と同じである。これを考えるなら、小石川上水がそのまま神田上水と名前を変えたと考えてもよさそうである。

江戸上水に触れている大半の書物(現在の考察)では、小石川上水は草創期の上水施設であり、神田上水の元になったもの、という説が主流になっている。それなら小石川上水という呼称はさっさと消え去って神田上水となるがよいだろうに、小石川上水という旧称が延々と使われている。これも不思議である。
小石川上水は通称で、神田上水は後に幕府が正式に認めた名称だから、人々は親しんでいた小石川上水の方を好んで使っていた、のかもしれない。しかし、小石川上水は主に江戸城を中心とした武家地域を優先的に給水していたはずで、町家に対しては神田上水の方が身近な存在なのではなかろうか、とも考えられる。触書などでも神田上水と書かれていただろうし、小石川上水よりは神田上水のほうが身近だったように思うのだが…。それにしても『事蹟合考』に「小石川上水は神田上水へと名称が変わった」という解説もない。

『事蹟合考』には藤五郎の水道、玉川上水らしき流れ、小石川上水、千川上水、白堀上水が登場する。しかし、神田上水や玉川上水という名称、青山上水は登場しない。江戸の四水道として現在認識されている神田、玉川、千川、青山上水だが、江戸当時の人々の上水に対する認識と、現在から過去を類推する認識とでは、かなり食い違っているのではないかという気がする。


■小石川は、どういう川だったのか

ところで、小石川水道、小石川上水などとして登場する小石川だが、その場所や環境について考えてみることにしよう。

現在、小石川は東京都文京区の地名として残っているが、小石川という川は見ることができない。では、天正当時はどうだったのだろう。享保十七年(一七三二)の初版で幕末まで版を重ねた地誌『江戸砂子』ではこう書かれている。

小石川と云は小石の多き小川、幾流もあるゆへ也と云。わけて伝通院のうしろの流、ねこまた橋の川筋、小石川の濫觴と云。又白山権現は加賀国石川郡より勧請あれば、それに対しての名とも云り *勧進・・・寺や仏像の建立や修理のため、寄付を集める行為


かつて細い小川が幾筋も流れていて、いずれも小石が多く川床に流れていた。とくに、伝通院の裏側を流れる小川と、ねこまた橋がかかっていた小川に、小石が多かった。これが、小石川の名前の由来だといっている。
また、文化七年(一八一〇)、林述斎の建議により晶平坂学問所・地理局で編纂され、文政十三年(一八三〇)に幕府に献上された地誌『新編武蔵風土記稿・巻之九豊島部』によるとこうである。

小石川並谷端川 長崎村より出る細流落合て、池袋村、滝野川村、巣鴨村等を歴て、小石川村に至て、此名起り、橋戸町、柳町より伝通院東の方を流れ、夫より水戸殿屋敷内にかゝり、流末同屋敷外南の方往還に架せる仙台橋の辺にて神田川の上流に合す、昔はよほどの川なり、後年追々道敷等に埋立られ、今は川幅広き所にて三四間に過ず、此川巣鴨村内にては谷端川と称す、


小石川という川は確かに存在していた。江戸時代の終わり頃には、三四間というから、六、八メートルの川幅があったようだ。江戸切絵図の東都小石川絵図にもその流路が描かれており、現在の千川通りに相当する。流れは次第に南下し、富坂下から水戸家の背後へとつづく。これは千川上水から分岐した谷端川が千川、または、小石川と呼ばれて神田川に合流していることを示している。切絵図で「小石川大下水」と書かれている辺りで、白山方面から流れてきた東大下水(ひがいおおげすい)が小石川に合流している。
「昔はよほどの川なり」といっているところを見ると、かつては川幅の広い堂々とした流れがあったのかも知れない。昭和四十三年に刊行された『東京新地図』(読売新聞社)では、小石川一-五丁目についてこんな説明をしている。

(千川)どぶは、昭和六年から九年にかけて暗渠化され、その上を千川通りと町の人がよんでいる都道補助七九号線が走っている。(略)どぶは、元禄九年(一六九六)に、小石川御殿、湯島聖堂などへの飲料水供給のために引かれた千川上水のなれのはてであった。(略)上水路が掘られるくらいだから、このあたりには、高台からの細流がいくつか流れていた。それらの合流地点には押し流された小石や砂が多かった。それが小石川という地名のおこりで、はじめは、付近一帯の村を総称する名だった。それから江戸城の三十六門の一つ(小石川御門)にも名づけられ、明治二十二年の市町村制実施と同時に東京市のの区名(小石川区)にもなった。旧小石川町は、こんど新しく町名となった春日と後楽に全部入ってしまい・・・


 ※小石川の流れについて書いているWebページがあったので、そのリンクを以下に貼っておく。
 小石川から谷端川へ 水の見えない川歩き


『新編武蔵風土記稿・巻之百十八・多摩郡之三十』では、玉川上水の水利・水門について以下のような説明がされている。

・・・是を多摩川上水と云、其濫觴を尋ぬるに、今の御か子司大久保主水先祖、大久保藤五郎忠行といひしもの、永禄六年十一月の軍に忠戦をはげみしかど、火炮に中りて後廃人となり、ゆかりにつきて当郡に来り、上和田村に寓居す、天正十八年御入国のとき、御旨をうけて初めて用水を聞き、多摩川の清泉を小石川筋へ達せしによりて、名を主水とめされしよし、然れどもこの時の水路は、何れなりや今詳かに弁じがたし、(以下略)


大久保藤五郎が三河一向一揆で負傷した後、多摩郡に来たというという記述があるが、これは後のこと。また、多摩川の水を小石川までひいたという記述もあるが、これは玉川上水との混同か。全体に誤解によって書かれていて、あまり信用することができない。

『武蔵名勝図会』は、植田孟〓によって編まれ、文政六年(一八二八)に昌平黌に献上された名所案内で、「井の頭池」につづく「上水の濫觴」の項には次のようにある。

御入国の天正、文禄のころ御目論見ありて、慶長年中より水道出来、神田上水と号する、その謂われは『編年集成』にも載せるところなり。
大久保左衛門五郎忠茂が五男にて大久保藤五郎忠行は(中略)御入国後は江戸にて宅地を賜いて、御菓子を製して差出し申すべき旨を命ぜらる。然るに、江城辺は水宜しからざる旨を申上げるによって、用水をうかがいて言上すべき旨を命ぜられける処、忠行この池水の流れて江戸川へ落ち入る水は源泉清潔なるゆえ、この水を小日向筋より引揚げて小石川辺を通し、神田へ至り、忠行が宅地近辺を通して、御用水となすべき旨を委しく申上げたり。


ここでいう「この池水」は当然ながら井の頭池のことで、果たしてどういった文献をもとに書かれたのか。おおむね由緒書に沿った内容で、初期の由緒書になかった水源=井の頭池が登場しているのは、九代忠宜の由緒書に影響されているようにも思える。
九代主水忠宜は由緒書で「井之頭之池清水にて里数近水道相斗水口切開神田領迄水掛候間此段早々言上仕候処為」と書いている。井の頭池を水源とする神田上水を意識してのことかも知れないが、神田上水とは書いていない。また、小石川上水とも明言していない。小石川上水と書けば井の頭池との関連性が薄くなるが、神田上水と書くにはためらいがあった、のかも知れない。

そもそも『事蹟合考』が小石川上水と神田上水を混同して記述したことに影響され、九代主水忠宜が小石川上水の水源が井の頭池だった、という推論した可能性もある。
いや、天正時代の小石川上水の時点で、すでに水源を井の頭に求めた次のプロジェクトが動いていた可能性だってある。しかし、そうした疑問に応える文献はいまのところ見つかっていない。

ついでながら、次項でふれる『天正日記』だが、ここでも神田上水という言葉は登場しない。小石川上水もでてこない。登場するのは「小石川水」である。「小石川水道」「小石川水」「小石川上水」「神田上水」。そのはっきりした定義は何なのか。謎は深まるばかりである。

(2019.03.17)

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