- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
22.天正日記について
■天下の偽書といわれる『天正日記』だが、その理由は?
誰が水道敷設を言い出したか、誰が指揮を執ったか、どのような普請が行なわれたかなどの、江戸の上水の成立に関する文献はほとんど残されていない。こうしたなか、神田上水と大久保主水を紹介する際に必ずといっていほど引用されるのが『天正日記』だ。なんの注釈もなく引用している場合も多いが、少し詳しい書籍だと「偽書といわれている」という説明が加えられている。しかし、偽書といってもどこがどうニセモノなのか。そこを説明しているものはほとんどないので調べてみた。
『天正日記』は、江戸町奉行の内藤清成の日記である。家康の江戸入国の際に先陣を務め、後に関東総奉行、江戸町奉行となった人物だ。その清成の天正十八年(一五九〇)五月十八日から十一月までが残されており、天正十八年八月一日の家康入国当時、人々が街づくりに関わっている様子が書かれている。しかし、その原本は存在せず、現在では『続々群書類従第五』に全文が収載されているのみである。
『天正日記』を紹介したのは小宮山昌玄という人物である。小宮山は文政十二年水戸生れ。名は昌玄、字は伯亀、綏介、号は南梁。父親は小宮山楓軒という儒学者で、昌玄も幼いときから儒学を学び、三〇歳のとき藩学の弘道館の教授になっている。維新後は大蔵省や東京府に勤務し、明治二十一年(一八八八)十二月二十四日に六八歳で没。東京府の古制度・古記録の調査収集事業や東京大学史料編纂掛、古事類苑編修会の仕事にたずさわったこともあり、その世界では知られた学者である。『天正日記』の原本は信濃国高遠藩主内藤家にあったという。それを幕府の御家人で考証学者の栗原信充が影写、すなわち原本の上に薄紙を敷いて模写していた。信充が明治三年に没すると、その蔵書は明治七年頃に島津久光公に献納されたが、その後明治十年に焼失。小宮山が影写本を入手したのは明治三年以後のことらしく、刊行されたのは明治十六年(一八八三)のことだ。
天正日記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
栗原信充の影写本は、ほとんどバラバラ。本の体をなしていなかったが、それを小宮山が整理し、さらに校訂を加え、いま見られる体裁にしたという。 この『天正日記』に対して、田中義成が『豊臣時代史』(大正十四年/一九二五)で「其文章、詞遺共に頗る古色あるを以て、従来人多く之を信用したれど、史実に徴して疑ふべきものあり」として疑念を呈した。
具体的には、秀吉が家康に国替えをつたえたとする時期が早すぎる。江戸入国以前に江戸の経営を始めているように書かれているが、これも早すぎる。水道の設計は市街成立の後と思われるので、これも早すぎる。同時期に家康の家臣だった松平家忠の『家忠日記』と、天候に関する記述が合わない。伊達政宗の小田原到着の日時が『伊達政宗記録事績考記』と合わない、などの点で疑わしいとしている。
『東京市史稿・上水編第一』の編者は、疑いを晴らすために原本の有無を内藤家に問い合わせたが、成果は得られなかった。また、栗原信充の子孫を訪ねたけれど、得るところがなかったと記しており、「旧本を見るに非ざる限り、未だ容易に其真偽を断じ難かる可し」としている。
だが、家康入国当時の資料は他にほとんどなく、その点『天正日記』は利用しやすいためかしばしば引用される運命をたどった。こうした事態に警鐘を鳴らすように、伊東多三郎は『天正日記と仮名性理』(『日本歴史』百九十五号・昭和三十九年)で、『天正日記』偽書説を強調した。
曰く「天正日記は東大史料編纂所などの専門家の間では、偽物と見なされている偽書である。普通の経験と眼力を持つ学者であれば、一見して用いてはならない書であることは明かである」とし「天正日記を無批判に用いるもの、あるいは多少の疑念を持ちながらも、やはりその記事を引用するものが目立つようになった」と苦言を呈している。
こうした流れに対し、水江蓮子はその著書『江戸市中形成史の研究』(弘文堂/昭和五十二年)のなかで、「『天正日記』の背景には、多くの資料が求められると思う。一七世紀半ばの寛文・延宝期に実測図としてはじめて作られた江戸図や、名所記・名所咄の類、享保年間の大道寺友山の著述や『江戸砂子』『江戸名勝志』さらに化成期以後の図会ものの類書などに語られた入国当時の伝承と逸事などがそれである。この推定が許されるならば、『天正日記』の内容は、それを天正一八年、ないし一九年の時点から見れば誤りも少なくないが、それぞれの事実について年代を若干さげれば、その地名の由来とも正しくむすびつき、承認できるものが多いのである」として、「一定の批判を用意すれば『天正日記』の使用も許されよう」と、資料価値を認める姿勢をとっている。
『天正日記』は、明治十六年(一八八三)に紹介されて以後、それを後押しする資料は発見されておらず、偽書である可能性は高いが、まったくのでたらめでもない、という評価しか得られていないといえるだろう。
■『天正日記』で上水建設はどう表現されているか
天正十八年(一五九〇)七月五日、北条氏直は小田原城をでて投降。十日には家康が、十三日に秀吉が小田原城に入城し、家康の関東移封を正式に公表した。それを受け、家康は八月朔日に江戸に入城したとつたえられている。しかし正確なところは分かっておらず、八朔が古式に則った伝統的な祝日なので、後世これにあてはめて入城の日と定めたのではないかともいわれている。
関東移封の件は同年五月中には家康の耳に入っていたらしく、五月下旬から入国の準備を始め、まず家臣の内藤清成と青山忠成を江戸に派遣。城下の開拓を始めさせた。また、宿場の計画や各種工匠の江戸への召集も行っている。江戸が将来多くの人々が集う大都市になることを予見したような行動だ。こうした、江戸大都市構想の一環として、家康は江戸の水道設備についても配慮を怠らなかった。『天正日記』
十二日、くもる、藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉はる、
これは、七月十二日に藤五郎が内藤清成を訪れ、江戸水道の見立てを命じられたことを清成につたえたことを示していると考えられる。
さて、七月十七日に秀吉が奥羽遠征に出立すると、家康も二十九日に小田原を出立。三日後の八月朔日に江戸に入城。家臣の住居を定めたり、知行割を決めたりと、忙しない日々がつづいた。また、樽屋藤左衛門と奈良屋市右衛門を江戸町年寄に命じて、将来発展していくであろう町家の管理一切を任せている。さらに江戸町奉行には板倉四郎右衛門勝重、彦坂小刑部元政之に、関東郡代は伊那熊蔵忠次に命じている。
入城後一カ月、九月朔日には日本橋辺りの町割りが始まり、二十六日には町並みが顔を現したと見られている。そして、十月四日には以下の記述がある。『天正日記』
四日、くもる、つくどの別当まいる、ゆしまのたかだいのした、小いしがわのすゑ池になりたる所、水はかせ、大かた干かたとなる、此分やしきにわり可申候、小身衆いろ\/申こまり候、地せばく人多くわり立候事むづかしく、藤左衛門に申付、地ゑづかせ、けんちうちて、それよりと申定む、小石川水はき(よ)ろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかヽる、
本文につづいて、小宮山昌玄の注釈がある。
湯島ノ台ハ本郷ナルベシ○小石川ノ未云々ハ小川町ノ辺ナルベシ、長禄園ニ往時此辺ニ一ノ池アリ、小石川ノ流ト覚シキアリテ之ニ通ゼリ、此天正ノ末マデ猶遺リシナルベシ、旧説ニ小川町ハ入国ノ初マデ畊地ナリシトモ云ヘバ、既ニ開墾セル処モアリシナルベシ○藤五郎ノ引水ハ乃大久保ノ上水ナリ、関口ヨリ導キテ小川町ニ通ゼシコト故ニ、僅三数月ノ間に弁ゼシナルベシ、後人或ハ大久保ノ上水終ニ成功ナカリシカト疑フモノハ非ナリ、
別当とは盲人の階層で、総録を筆頭に、検校・別当・勾当・座頭・衆分の五の階層に分かれていた。「つくど」は、新宿区筑土八幡町2-1にある筑土八幡神社のことだろう。内容は、本郷台の下、神田小川町の辺りに池があった。池の水を抜いて干潟にし、武家屋敷にしようとしたが、狭い土地に希望者が殺到した。町年寄の樽屋藤左衛門に、土地がしっかりしてから検知をして、それから屋敷割をするように言った。この池には小石川の流れが注いでいたが、水はけがよくなった。藤五郎の上水の整備もずいぶん時間がかかった、といったことだろうか。
七月に家康から水道のことを命じられ、十月にほぼ完成したので、約三カ月で完成した、ということのようだ。小石川の支流がいくつかあり、そのうちのひとつの流れは池に注いでいて、その流れを堰き止め、別の流れを豊富にするような普請をしていたのだろうか。堰き止め結果、池が干上がったので住宅地にしたのだろう。
そして、十二日の日記の記述である。
『天正日記』
十二日、はれる、小石川の末にてうめたて候所大かたやしきにわりわたし、大身小身すべて弐百三十弐家也、此内小田原衆三人、ひたち殿にて口入にてわりわたす、
池は埋め立てられ、二百三十二軒家が建ったことが分かる。
『天正日記』
十六日、ふる、小石川の末出水にて、家ながす、このうち小身衆自身にて土俵入れ候衆あり、
とあるのは、堰き止めたはずの小石川の吐き出し口が大雨で決壊して、整地したところに建てた家が流された。家禄の少ない下級武士は、自分で砂の入った土俵を積み上げて、出水を防ぐはめになった、といった内容だろう。小石川の流れをめぐる普請事業に手こずっている様子がうかがえる。しかし、『天正日記』自体が、幕末期あたりに様々な文献をつぎはぎして創作された偽書である、という疑いが依然として残されている。江戸水道が天正十八年成立を示唆する文献資料は、この『天正日記』以外には、大久保家の由緒を語る『家伝資料』『御用達町人由緒』『大久保惣系譜』などがあるばかりである。
■藤五郎が見立てたのは「小石川水道」
『天正日記』が後代に書かれた偽書であって、天正十八年の出来事に言及した文書をなんらかの形で蒐集し、再構成してたものであるとするなら、いくつかの疑問はあるにしても、水江蓮子がいうように「誤りも少なくないが、それぞれの事実について年代を若干さげれば、その地名の由来とも正しくむすびつき、承認できるものが多い」ということで、まったくの嘘というわけではなさそうだ。
ここで思い返したいのは、前項で述べた、大久保家の由緒書では概ね小石川水道という名称を使っていて、神田上水とはしていないことだ。もしかすると、偽書『天正日記』がより所としているのは、もしかしたら大久保家の由緒書であるのかも知れない。天正十八年の成立を明確に主張しているのは、大久保家の由緒書と『天正日記』だけで、他の史料はその点について曖昧としているのも、なにか気になるところである。
■新説!? 『天正日記』は偽書ではない!
実をいうと、大久保主水について調べ始め、原稿を書き始めたのは二〇〇一〜二〇〇四年頃のことで、書いたままほったらかしにしていた、というのが事実である。それが、『家康、江戸を建てる』が正月時代劇として二〇十九年正月に放送されることになり、大久保主水が珍しくドラマの主人公人なるということを知り、それならばと過去の原稿を見直し、修正しながらWebにアップしてきたということなのである。なので、最近の論考についてはあまりアンテナが張られておらず、古いままの情報が主だったのだが、『天正日記』を検索していてとても興味深い考察に出くわしたので紹介する。
法務研究 第15号(2018年1月発行)所収
「校訂天正日記の資料価値」蓮沼啓介
天正日記は偽書ではないかという学説の根拠とされる疑義と不審は天正十八年六月上旬の日付に集中しているかの如くである。実はここは追記なのである。追記であるからか,この部分の日付はあやふやで不確かである。その結果として様々な疑義や不審が発生する。天正日記のうち天正十八年六月上旬の部分の記事は追記である。その日に書いた記事ではなくて後日になってから書き足した追記の部分であると推定される。その部分の記載が何らかの事情により失われてしまったために後日に資料を探して日記の記事を書き足す。これが追記である
(中略)
天正日記の筆者は数田吉兵衛であると推定される。
(中略)
天正日記が偽書であるという断定を下したのは田中義成1925『豊臣時代史』である。第二十二章「徳川家康の関東入国」において天正日記の記事を概略したうえで,天正日記にたいする疑義と不審を書き並べている。
(中略)
不審はすべて同じ源から発している。日記の日付が間違うことはないという思い込みが全ての不審の根っこにある。日記は本人が書くものであるからその日の日付をあやまつ筈がないという信念に立つと『天正日記』のうち始まりの部分である天正十八年六月上旬の日付があやふやでおかしいという可能性が見えなくなる。『天正日記』の始まりの部分は日付が間違っているだけであって,記事が間違っているのではない。だが強い思い込みに囚われるとこの事が全く見えなくなる。
(中略)
天正日記の日付の一部を訂正すれば不審はすべて完全に吹き散らされる。天正日記偽書説は完全に崩れ去り雲散霧消する。
として五点の不審について反証し、その疑いを晴らしている。この論証について是非を加えるだけの知識はないが、もしこれが正しいのなら、大久保藤五郎の小石川上水開設はそのまま『天正日記』の通りということになる。
さらに、大久保藤五郎の開削した上水についても、小石川水道と神田上水は別物だとし、その流れについては、
水道はどの辺りに掘削されたのであろうか。まず神田川の流れがどう変化したのかを推測により復元して見る。平川と呼ばれる大池の水が吐き出され干潟になった際に神田川の水流はどうなったのか。現在の飯田橋のあたりから日本橋川の川筋に流れていたと推定される。神田川の流れの東側にできた干潟の埋め立て地には新築の屋敷が立ち並び、こうした新興の住宅地にこいしがわの真水を運ぶ水路が掘削された。これが江戸水道である。
(略)
要するに新築の住宅街に水を供給する緊急の必要があるので、水道の敷設が行われただけのことであって不審なところはどこにもない。田中1925は江 戸水道は神田上水であるとする間違った前提に立って展開された空想論
と解きほぐす。経緯としては、次のようなことか。
・家康は国替えの情報がつたわると江戸の市街地づくりに着手
・小石川の、池になっている部分を排水して干潟化
・干潟を埋め立て住宅地化
・流れのよくなった小石川の水を、住宅地に引水
・引水のために掘削工事を行い、小石川上水=江戸水道とした
大久保藤五郎の手がけた上水は神田上水ではなく小石川上水、というのはすでに明らかだが、『天正日記』を否定した田中義成は、この二つを混同していた。あるいは、小石川上水が神田上水に発展した、と考えていた。だから誤解が生じたということだろう。
小石川上水は水戸家を経て江戸城内に通じ、さらに江戸市中に流れたものではなく、住宅地に水を供給したものであった、と。そして、
慶長見聞集に「慶長八年豊島ノ洲崎ニ町ヲ立テ南海ヲ四方三十町埋立云々」(附考)とある。この埋め立て工事に際して水道橋から聖橋まで外堀が掘られ、(略)外堀が掘抜かれた結果、小石川上水は江戸の下町には配水が届かなくなり、水量も減って忘れ去れて、遂には神田上水に取って代わられてしまう。
と蓮沼啓介は説明する。小石川上水は、特定の住宅地に上水を供給するためにつくられた水道だったのだ、と。
これならば、神田上水、玉川上水の歴史を俯瞰・説明する『上水記』が大久保主水が登場しなくても、さほどの違和感はない。また、藤五郎の使命は小石川上水だけだったとしたら、神田上水以後の上水に関与しなかった可能性も高い。
もしかして、小石川上水が飲水を供給したのは、江戸の市街化のために働く家康の家臣たちの住宅だったのかも知れないと思えてくる。傾聴に値する分析だと思う。
(2019.03.18)
(2019.03.19加筆)