- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


23.藤五郎、脱サラして幕府御用達の御菓子司となる



大久保藤五郎は江戸の上水に関する事業を終えた後、武家を廃して御用達町人となり、将軍家に菓子を献上する仕事に就いた。武士として槍働きができなくなったこと、また実子がなかったことも理由として挙げられているが、知行召し上げとなり、御用達町人となった真相は定かではない。ただ、藤五郎が三河一向一揆・上和田の戦いで被弾したのち菓子づくりに目覚めていたことは、 9.藤五郎、故郷で菓子をつくりはじめる ですでに述べた。『東京市史稿』や本稿でもたびたび『御用達町人由緒』を引き合いにしているが、これは御用達町人としての身分と経歴を示すために提出されたものだ。御用達町人がどういうものか、『江戸町人の研究第一巻』所収の「江戸町人総論」(西山松之助)にあるので、それを引用しよう。

・・・家康の江戸入府に当たって(略)城造りや都市計画も、すべて戦時体制として営まれたにちがいない。
 不敗の戦時軍国防衛体制としての江戸城に、将軍の絶対的権力を確立するための町割や、家臣団・大名などの屋敷が配置され、その営みが恒常化するように、大土木工事が展開された。このように、江戸城の将軍とその直属家臣団である旗本・御家人たちの、城や居宅の造営ならびにその生活を賄うための町人として、多くの職人や商人がこれに従った。築城のための設計者、技術者としての大工・石工・石垣造営者・木挽・左官・鳶職人・運搬業者・屋根師・瓦工・畳や建具職人・絵師・塗師・造園師・武器・武具などの諸職人、また、これらを促進するためのいわば周辺に位置する芸能者とか、皮革・染織などの特殊技能者なども多数動員された。
 これらの町人は、江戸幕府によって初期には強制的に動員された技術者などもあったと思われるが、平和が永続するにしたがって、江戸城御用の特権町人になっていった。これら御用達町人たちは『武鑑』などに収載されるようになるが、このように特権化したものは少数の有力な人たちで、その背後にいた諸職人ら技術者の実数は莫大な数であったと考えられる。


西山が指摘するように、御用達町人は、江戸城で必要とする様々な物品や技術を特権的に納入する業者たちだった。『東京市史稿 産業篇2』でも、『御用達町人由緒』と『家伝資料』の記述をもとに、「天正十八年頃、家康の入国に随伴して御用達諸職・商人たちが江戸に定居して屋敷を賜り、また、扶持を受けるものが若干あった。御鉄砲師胝惣八郎、御土器大工松井彌右衛門、桶大工頭野々山彌兵衛、桶大工頭御木具細井藤十郎、御菓子御用虎屋、御酒屋伊勢屋の類がこれだ」と書かれ、江戸に招かれた商人や職人たちの由緒書きが列挙されている。もっとも、ここには大久保主水は登場しない。なぜなら、大久保主水は、その当時はまだ武士であり、町人ではなかったからだ。あくまでも武士として小石川上水に携わり、趣味の延長として菓子をつくって家康に献上していたのだ。それが一転して武士を辞めた。そうして、趣味が専門職となって家康への菓子献上が本業となっていった。この過程で、主水は御用達職人として位置づけられることになったのだろう。
御用達町人には、幕府の金座、銀座の座人や呉服所、菓子所、廻船御用達、藩の掛屋や蔵元、旗本や俸禄米の換金を行なう札差商人、武家に必要な物品を提供する商人(畳師、指物師、塗師、絵師、鍛冶師、具足師)などがいた。
御用達町人になると、その貢献が認められて幕府から町屋敷を拝領する。また、扶持米なども支給される。大久保主水は、文久元年の『由緒書』によれば神田新革屋町住宅と、元飯田町に三百坪の添地を拝領している。また、百両の御宛行(扶持)を賜っている。町人とはいっても扱いは士分格なので、大名や旗本、幕府役人の姓名、家紋、職務などが記された幕府の職員録『武鑑』にもその名が記されている。御用達町人の中には帯刀が許されるものもあり、寛文八年三月廿日の御触書では次のように書かれている。

一、扶持之町人刀御免、但、法躰之者は無用事。
呉服所七人、金銀座七人、本阿彌七人、狩野九人、大佛師左京、木原縫殿助、大久保主水、伊勢屋作兵衛、岩井與右衛門、丸田喜右衛門、辻彌兵衛、伊阿彌角之丞、土屋右衛門、臺屋五郎右衛門

(2019.03.18)

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