- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


25.嘉定の儀式について


■家康、嘉定の儀式をはじめる

嘉定とは、簡単にいえば「めでたい祝い事があったときに、餅などを配る儀式」で、その起源については諸説ある。鈴木晋一『嘉定と菓子』(『和菓子』第一号・虎屋文庫)によれば、次の四つの説があるという。

(一)「平安前期の嘉祥二年(八九四)六月十六日に豊後の国から仁明天皇に白亀が献上され、それを吉兆として祝い群臣に米や銭を賜った」。
(二)「後嵯峨院が即位する前に、六月十六日に宋の嘉定銭十六枚で食物を買って食べていたら即位できたので、その後も六月十六日に餅などを配った」(『東見記』人見卜幽軒)という説。
(三)「足利将軍義政の時代に揚弓遊びの勝者に嘉定銭十六文で食べ物を買ってもてなした」(『包丁書録』林羅山)。
(四)元亀三年(一五七二)の遠州三方ヶ原の合戦が起源をおく説。

いわれはともかく、室町時代には武家や宮中で嘉定が定着していたのは事実のようで、豊臣秀吉も六月十六日に部下に菓子を与えるなど嘉定の儀式を行っていた。その儀式を家康も継承し、慶長十七年から幕末まで江戸時代を通して行うことになるのだが、この嘉定に幕府御用菓子司である大久保主水は深く関わっていた。また、起源については(四)の三方ヶ原の合戦にあるとする文書を残していて、『嘉定記』または『嘉定私記』として複数存在しているが、内容はほぼ同じなので、ここでは『古事類苑・第一・歳時部十六・嘉祥』の『嘉定私記』を引用する。

嘉定私記

嘉定之御規式被仰出候 慶長年中之頃與申伝候 其以前嘉定御祝儀候義之初者元亀三年 味方原御合戦之時 羽入八幡にて嘉定銭 裏に十六與鋳附たるを被遊御拾 御利運被為思召候 折節先祖大久保藤五郎 六種の御菓子奉献候処 時節能奉差上 直二御軍勢へも被下 此度之御陣御勝利不可疑との上意有之候 此砌藤五郎未鉄砲疵に而歩行難相成 上和田二罷在 右御菓子調整仕り 仙水清左衛門 熊井五郎左衛門差添 御陣中へ奉差上候処 御陣勢へ被下之旨被仰出 御目通におゐて長持之蓋へ菓子船等盛之候 且嘉定御祝之儀者 聖武帝之御時 嘉定銭珍菓を以 御祝有之事被為思召 嘉定御祝儀可被仰出候処へ 嘉定銭并六種之菓子一時に御手に入 御機嫌二被為思召候旨蒙 上意 右御例に而嘉定渡二盛奉献上 御時服拝領仕来候処 御祝六月十六日御規式與被仰出候節より 銘々白片木へ盛 饅頭 羊羹 鶉やき之外 三種者寄水 金飩 あこや與可相唱旨被仰付 此節より御用多二相成 御代銀被下置候 右は此度御尋御座候二付 代々申伝候を以奉申上候 以上

 文化六巳年七月十日   大久保主水


内容は概ね以下のように要約される。
・三方ヶ原の戦いの際に羽入八幡で家康が嘉定銭を拾った。
・家康はこれを吉兆と判断。
・たまたまこのとき、大久保藤五郎が六種類の菓子を差し入れた。
・これを家康は、勝利間違いなしと思った。
・以来、六月十六日には菓子を献上する習わしとなった。
読みが「勝つ」につながる嘉定通宝と大久保藤五郎が六種の菓子が、嘉定の儀式の起源であるという。以降、家康は吉事に恵まれ嘉定を大切に扱うようになり、江戸時代を通じて幕府の一大行事となっていったという。とはいえ現実的な話ではなく伝説なのだろう。
嘉定は恩賜の煙草や金杯などにも似ており、儀式を通して支配関係を確認する行為ともいえる。そのシステムに菓子司である大久保主水が利用されたのではないだろうか。たんに大久保主水家につたわるいいつたえではないような気がする。


■藤五郎の菓子の献上は事実だったのか?

実をいえば、三方ヶ原の合戦は家康の負け戦として名高い。逃げ帰るときに馬上で糞を漏らしたという逸話まで残っているぐらいで、冷や汗ものの戦だったらしい。ならば「嘉定銭も藤五郎の菓子もあてにはならん」と考えても不思議ではない。しかし、そうならず元亀三年の逸事を以て幕府が瓦解するまで嘉定の儀式は延々とつづくのである。

元亀三年の逸話を、嘉定という儀式の原点となる逸事が必要だからつくられた創作だと唱える説もある。たとえば鈴木晋一氏は『嘉定と菓子』(『和菓子第一号』虎屋文庫)のなかで、こういっている。

 三方原の戦は元亀三年十二月二十二日のことだった。羽入八幡での出来事も、あったとすれば同じ日のことだ。それを佳例として祝うならば、当然十二月二十二日におこなわれるべきだが、幕府は無理をしてそれを六月十六日にしてしまったようだ。『嘉定私記』の中に、その事情をうかがわせるくだりがある。随所に矛盾をはらんだ難文なので、私に整理すると、次のようになる。
 三方原合戦の日、神君家康は羽入八幡で嘉定銭を拾った。そこへ大久保藤五郎から六種の菓子が届き、以後戦況は好転した。その佳例によって、その後は菓子を献上し、時服を拝領するようになっていた。それが、

御祝六月十六日と仰出され候節より、銘々白片木へ盛、饅頭、羊羹、鶉やきの外、三種は寄水、金飩、あこやと相唱ふべき旨仰付られ、此節より御多用に相成、御代銀下置れ候、以上。
とあって、ある時点で突然十二月二十二日のものであった行事が、六月十六日のものに変えられてしまったのである。
その理由は、おそらくきわめて簡単で、家康は開府以前から豊臣氏にならって、六月十六日の嘉定をやっていたと思われる。三方原合戦起源説は、その後の創作である可能性が大きい。そして、豊臣氏の嘉定は、これも前代にならっただけのものであったろう。


しかし、『嘉定私記』には、家康の嘉定が当初十二月二十二日に行なわれていたとは書かれていない。なので、鈴木の言うように家康の嘉定が最初のうち十二月二十二日の行事だったかどうかは分からない。
また、「嘉定御祝之儀者 聖武帝之御時 嘉定銭珍菓を以 御祝有之事被為思召 嘉定御祝儀可被仰出候処」というように、嘉定の祝いは聖武帝(聖武天皇/七〇一 〜 五六)の時代に嘉定銭と珍しい菓子で祝ったという故事を家康が言い出し、自分も始めようと言ったことが記されている。少し強引とも言える根拠である。
さらに、わざわざ負け戦を選んで嘉定の起源としている。
元亀三年の逸話は矛盾だらけにみえる。白紙の状態から逸話を創作するなら、こうしたぎくしゃくしたものではなく、もう少し辻褄の合ったものになるはずで、いくつかの事実を脚色・つぎはぎし、物語化したようにみえる。


■元亀三年説を唱える斉藤彦麻呂『傍廂』

国学者の斉藤彦麻呂は、『傍廂』(一八五三序)で嘉定の元亀三年説を主張している。

六月嘉定の式は、重き事なり。包丁書録に、六月十六日嘉定あり、「近世世俗に申し伝ふるは 室町家大樹のときに 六月納涼の遊の為に 揚弓を射てかけ物とし 負けたる者嘉定銭十六文を出して 食物を買て 勝ちたる者をもてなすなり。嘉定は宗の寧宗の年号云々」とあれど、師翁貞丈大人云く、室町家年中行事の書どもには見えずといはれたり。(略) 嘉定の実の伝は、元亀三年六月十六日、遠江国御方が原羽入八幡宮へ御参詣の節、社中にて表に嘉定通宝、裏に十六と、鋳たる銭を拾はせ給いて、諸軍に示して、嘉定はよろこびを定むるなり。十六は当日なり。勝利の瑞なりとのたまふ。時にあひにあひて、大久保藤五郎六種の菓子献上せんとて、御旅館へ持ち行きしを、御社参のよしを聞きて、この所にて奉りしなり。益御歓ありしとなり。是正説なるべし。足利の遊興ごとき、後世までの重き大礼とし給ふべきかは。藤五郎は足に鉄炮疵ありて、歩行なりがたき故に、御菓子司となりて、本白銀町の辺に地所給へり。大阪落城の後、嘉定は京都にて祝ひたまひ、八朔は江戸にて祝ひ給ひし御吉例なりしを、慶安三年より一度中絶したるを、またおこしたまへり。さるを、嘉定嘉祥として、仁明天皇より始まるといひ、また大宝元年六月十六日宴を給ひしによりて、天武天皇より始まるなど、まちまちにいへるは、みな推量の私にてとるにたりず。


斉藤は『包丁書録』を引用し、古来からある嘉定が徳川家の嘉定儀式につながったのではなく、三方ヶ原羽入八幡のエピソードがルーツであると主張している。ちなみに『包丁書録』(林羅山)は慶安五年(一六五二)ころの成立で、その内容は、ほぼ引用部分に重なり、大久保主水に関する記述はない。 斉藤は、家康が嘉定通宝を拾ったのは「原羽入八幡宮へ御参詣の節」であり、「三方原合戦の日、神君家康は羽入八幡で嘉定銭を拾った」(鈴木晋一)とは書いていない。さらに、大久保藤五郎が菓子を差し入れたのも「合戦の日」(鈴木晋一)とも書いていない。鈴木は、家康が嘉定通宝を拾ったのも藤五郎が菓子を差し入れたのも「合戦の日」と断定しているが、そうとは限らないのである。
家康は三方ヶ原の合戦の半年ほど前に羽入八幡を参詣し、嘉定通宝を拾った。相前後して藤五郎が家康の宿に餅を差し入れた。元亀三年説は、こうしたエピソードからなる逸話と考えれば、それらしきことはあった、と考えてよいのではないだろうか。それがいつしか、『嘉定私記』のようにすべてが「合戦の日」の出来事のように書かれるようになったのではないだろうか。

とはいえ嘉定が足利将軍の時代や、それ以前に宮中で行われていたのは確かなことらしい。大久保主水の『嘉定記』にも次のように書かれている。

この御祝儀は足利将軍家の御ときよりをこなはれてめでたき御ことゆへ年来御もよほしあそばされたくおぼしめし、折から嘉定銭六種の御くわし同時に御手に入しは、ご存分なりとおほせられそののち年々六月十六日定式には仰出されしよし

元亀三年のいくつかの出来事が、家康と「宮中でも行なわれている嘉定という儀式」を結びつけるきっかけになったということだろう。縁起かつぎが儀式化されていく過程が見えるようで興味深い。

六月十六日には、特別な謂われがあると主張する意見もある。『饅頭博物誌』(日本の食文化体系十八・東京書房社[昭和六〇年]松崎寛雄)のなかでこう書いている。

徳川家では、嘉定が武門で重んじられた慣行というほかに、この行事を特別に重要視する理由があった。それは永禄三年(一五六〇)家康が三河国鴨田の菩提寺大樹寺で危難に遭い、辛うじて脱出したのが六月十六日だったことによる。尾州大高城にあった一八歳の家康は、今川義元が桶狭間で討たれたことを聞き城を脱し、途中織田方とも野武士とも分からぬ軍勢に追われつつ、この寺に駆けこんだ。従うもの近臣一六人。父広忠の墓前で割腹しようとして当山一三世登誉天室に諫止されたとも、また風呂桶に潜んで難をまぬがれたのだともいう。

(2019.09.05)

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