- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


26.菓子司として嘉定の儀式を司る


■江戸城の大広間で将軍が大名・旗本に菓子を配る

『嘉定私記』には、嘉定とは「柳営にて毎歳六月十六日、群臣に菓子を頒ち給ふ、是を嘉定という」とある。喜びのお祝いとして、江戸城内において将軍が大名や旗本に菓子を分け与える祝い事だ。もちろんすべての家臣に将軍が自ら菓子を分け与えたわけではない。官位や官職によって頂戴の仕方に差があったようだ。この儀式を取り仕切るのが、御菓子司大久保主水の役割のひとつだった。
六月十六日、江戸在府中の大名・旗本は江戸城に登城してくる。五百畳もある江戸城の大広間には二万六百八十四個もの菓子が配置されており、将軍から菓子を賜る。松平氏などの大名から始まって、譜代大名、官位の高い大名などが一人ずつ菓子を頂戴する。次第に一度に頂戴する人数は増えていき、最後は九人一度に取りに行くという。しかも、将軍が直接配るのは最初の方だけ。あとは各自が自分で菓子を取って帰る。もっとも、二代秀忠の頃までは将軍自らがすべての菓子を配ったという。二、三日は肩が痛かったそうで、その苦労が思いやられる。
さて、配られる菓子だが、饅頭や羊羹、鶉焼、阿古屋など室町時代にもみられる古い菓子が種になっている。これには理由があって、前項で述べた三方ヶ原の戦いのときに藤五郎が献上したといわれるのが、饅頭、羊羹、鶉焼、阿古屋、寄水、金飩の六種類の菓子だったからで、その故事をそのまま引き継いでいるのである。
饅頭は、小麦粉の皮で餡を包んで蒸した酒饅頭。羊羹は蒸羊羹。鶉焼は、鶉餅を焼いて焦げ色をつけたもの。阿古屋は●(米編に、参)粉餅に小豆餡をのせたもの。寄水は、●(米編に、参)粉を棒状にしてねじって蒸したもの。金飩は、砂糖を包み込んだ●(米編に、参)粉の団子である。
嘉定において配られる菓子は御用菓子司が毎年交代でつくったが、総合プロデューサーとして製作総指揮を執ったのが、大久保主水だった。
大名の中には江戸城での嘉定の後、屋敷内で同じように嘉定を行ったものもあったという。将軍から頂いた菓子を切り分け、小さくしつつも家臣たちと分け合ったのだろう。また、嘉定の儀式は地方にも伝搬していき、国元の藩内で行ったところもあるという(「近世の武家儀礼と江戸・江戸城」大友一雄 /『日本史研究』四六三号所収)。まさに、将軍を頂点とするピラミッドのような形で、祝い事を分け合っていた。


■最後の嘉定の儀式?

嘉定は、江戸年間を通して行なわれたが、その最後となったのは文久元年(一八六一)六月十六日の嘉定である。その様子を「藤岡屋日記」で見ることができる。



しかし、翌文久元年(一八六二)年六月十六日の分には、もう嘉定の行事はなく、日記では

○六月十六日
 一 殿中無別状
 一 嘉定御祝、当年ハ無之。

とだけ素っ気なく書かれている。そして、以後の日記には特別に注釈もなく、嘉定についての記載がなくなる。明治維新まで数年。殿中に別状がないとはいっても、もはや嘉定どころではなくなったというのが実状だろう。ということは、この年から御用菓子大久保主水では年中行事がなくなったということになる。
『金沢丹後江戸菓子文様』(金沢復一編集)によれば、「慶応二年三月、永年御賄頭支配だった大久保主水に代って、金沢丹後に御賄頭支配を仰付けられた。然しわずかに二年にして、大政奉還、徳川家の御用は終ったのである」という。また、『金沢丹後文書()』によれば、「大久保氏の一族「宇津宮」と増田氏の「金沢丹後」が幕府御用達を最後迄勤めた」という。「宇津宮」とは宇津宮内匠のことで、「寛政以後被下物御用向で金沢丹後と競争した主水の手代宇津宮内匠とは大久保氏の一族だった」。
大政奉還後、菓子司大久保主水は徳川家に殉じて廃業。徳川家達に伴い、静岡に移住した。一方の金沢丹後は「徳川幕府瓦解後、早速皇室御用を承り」(『金沢丹後江戸菓子文様』)、広く一般にも菓子を販売し始めた。

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そのほか、嘉定一般については以下が詳しく、網羅的な研究がなされている。
「江戸幕府嘉祥儀礼の成立」 (『武家儀礼格式の研究』所収) 二木謙一

以下には嘉定の概要、楊洲周延の『千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図』がある。
『和楽』 和菓子を楽しむ“嘉祥”と厄の棚卸し“夏越の祓”

『南紀徳川史巻之百三十三』(第十四冊)に「嘉定御式」の項があり、儀式の進行が詳述されている。



(2019.08.06)

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