- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


27.大久保主水の屋敷について


■最初に住んだのは福田村

大久保主水はどこに住んでいたのか。文久元年(一八六一)の由緒書きによれば、江戸での上水の見立てを命じられた藤五郎が到着した場所は福田村となっている。

天正十八年寅年駿河江被召出再度御目見被仰付此度関東御入国之処江戸水悪敷諸人及難儀繁栄之地二無之急ぎ彼地江罷越上水見立可申旨蒙上意武具馬具御服其外道中御手当被成下即日出立当地神田福田村江参着屋敷拝領仕右之条々申渡候処土地之者共一統奉恐悦玉川筋江触流し追々水筋申出・・・

大垣藩士・大橋方長が安永二年(一七七三)に編んだ江戸の地誌『荏土図説』(『武江図説』とも)は、福田村を次のように紹介している。

○福田村旧跡 今の本石町本銀町辺也といへり
御菓子司大久保氏も古へ今の常盤橋、其頃は大橋と唱へし比は此わたりに住居ありや。其頃卜養の狂歌に
  大橋を通らぬみこもとおれかし主水の餅を口によせばや
大久保氏其後、今の銀町向河岸の地へうつれしか。今の居宅の所に小福田村稲荷勧請在り。是福田村鎮守にて、其遺跡也

常盤橋の名は寛永六年(一六二九)頃からで、それ以前に大橋と呼ばれた時代のことだ(しかし、大橋の場所については諸説あって定かではない)。とにかく大久保主水はかつて福田村、すなわち本石町から本銀町あたりに住まいしていて、後に移転したという。


■屋敷の敷地内に、福田稲荷を祀る

昭和十年刊の『神田文化史』(中村薫)に、十代大久保主水忠記による賜邸鎮守稲荷社の由来書が引用されている。由来書の趣旨は福田稲荷の霊験に関する伝説的な事蹟なのだが、大久保主水が賜った地所の区画割りの変遷にも言及しているので、抜き書き的に引用してみる。

「予の屋敷、天正十八年寅五月、方百歩の地賜はりし、前よりありし蒼稲魂の社をそのまゝ鎮守と崇め、武州豊島郡砂尾郷、橋場村の神明宮神主、十六代鈴木主水平朝臣重久をして祭祠司どらしめ、福田村に宮柱太敷たゝせ玉ひつれば、福田蒼稲魂とは崇め申せしなり」

「方百歩の地、元禄四年辛未八月、神田堀割のせつ、数百坪御用上ヶ地となりたる由なり。其頃、神田龍閑町元地、本銀町四軒屋敷、新革屋町、元乗物町四ヶ町の河岸を里俗もんと河岸といひならはし今に、もんと河岸と唱ふ。同十四年巳七月、元飯田町中坂にて屋敷賜はりしは厚き御惠にて、歩数の多少いふに及ばず、いともかしこし。宝永四亥年、享保七寅年両度御用上ヶ地、替り地賜らず。天正中福田村に宅地賜はりしころは人家なく、昿野へ屋敷を建、井穿ちたり。乾向の門にて、元禄四年辛未八月より表門前、南のかた、新革屋町往来に出たり」

「井戸は往古、屋敷うちにあり、享保版の「江戸砂子」といへる本の一の巻二十四丁メに、○主水の井、銀町のかしこにあり、大久保主水やしきの内也とあり。御用地の度々、地所狭少になりしなり。鎮守社頭廻りに、御手洗の有し事は元禄中、社の南の方へあらたに倉庫を作りし時、一丈二尺ばかり堀さがりて、池の柵並木の根のようなるもの、おびたヾしく掘出したり・・・(以下略)」

以降、二百五十年前に祀った稲荷社の遺構が地下から発見されたという話につづくのだが、本筋とは関係がないので省略する。


■堀割の掘削で、地所が削られる

さて、屋敷を賜った頃は人家も少なく、広大な敷地内に件の福田稲荷を祀り、井戸も掘られた。しかし、宅地が堀割の開削のために召し上げられたという。JR神田駅の近くに今川橋跡碑があり、次のように書かれている。

 今川橋跡碑

元禄4年(1691)この地、東西に堀割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と堀割の接点に住んでいたので竜閑川と呼ばれるようになった。
 (略)
昭和25年(1950)竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。

尾張屋板江戸切絵図(安政六年版)を見ると大久保主水の屋敷が描き込まれていて、宅地の南側は道路をはさんで神田請負地とあり、その南側に堀割が通っている。どの部分まで召し上げられたのかは分からないが、セットバックを余儀なくさせられたのだろう。
その代わり、元飯田町に屋敷を賜っている。文久元年の由緒書に「拝領屋敷 神田新革屋町住宅 元飯田町坪数三百坪添地」とあって、元飯田町は現在の九段北一丁目にあたり、もとは飯田町と呼ばれていた。元禄十年の大火の後に町屋が築地(現・中央区)に移転し、九段の方を「元飯田町」、築地の移転先を「南飯田町」と呼んだという。


■堀割の完成で、屋敷周辺が主水河岸と呼ばれる

話を戻す。敷地の南側に堀割ができたことで、主水の屋敷は川沿いに立つことになった。これにより、近辺は「主水河岸」と呼ばれるようになったようだ。安政六年版で「神田請負地」となっているあたりで、他の切絵図には「主水河岸」「主水川岸」などともなっている。

さて、敷地内にあった井戸は、「元禄四年辛未八月より表門前、南のかた、新革屋町往来に出たり」とあるように、上地によって路上にはみ出ることとなった。
『江戸名所図会』の「今川橋」の項に、次のようにある。

此北詰の西の河岸を、主水河岸と字す。御菓子司大久保主水の宅ある故にしか云り。宅の前に井あり。主水井と云ふ。昔は御茶の水にもめさせられしとなり。
再校江府名跡志に、一石橋の北の橋詰に大久保主水が亭あり。寛永のころに大樹、御船にて彼地を通らせ給ふ頃、主水の宅を問はせ給ひ、又半井卜養に一首仕るべき由、仰事ありければ、卜養とりあへず、「大橋を通らぬみこも通れかし主水が餅を口によせばや」、と申上けるとなり。但しその家の伝ふる處、いかなるや知らず。
再校江府名跡志に、一石橋の北の橋詰に大久保主水が亭あり。寛永のころに大樹、御船にて彼地を通らせ給ふ頃、主水の宅を問はせ給ひ、又半井卜養に一首仕るべき由、仰事ありければ、卜養とりあへず、「大橋を通らぬみこも通れかし主水が餅を口によせばや」、と申上けるとなり。但しその家の伝ふる處、いかなるや知らず。

図を見ると建物から往来に小屋がはみ出る恰好になっていて、ここに井戸があるのだろう。右に見える黒い門は表門と思われる。また、大樹とは将軍のことである。

人文学オープンデータ共同利用センター「江戸名所図会」


■町屋の開発、地名の変遷で「?」なところもあるが・・・

『江戸砂子』では大久保主水の住居について、次のようにも紹介している。

○一石橋 日本橋より二丁ほど西の方、御内曲輪堀の河岸通り也。むかしは大橋といへり。北の橋詰に御菓子司の大久保主水が亭(ちん)あり。又ときははしの事ともいふ。寛永の比御船にて御成の時、御尋ありしに主水が亭なり、と申上ル。半井卜養御前にありしが、一首つかまつれと上意ありければ、
 大橋を通らぬみこも通れかし主水が餅を口によせはや     卜養

『江戸名所図会』同様、一石橋の北の橋詰に主水の住まいがあった、としている。しかし、尾張屋板江戸切絵図(安政六年版)を見ても一石橋は新革屋町とは少し離れていて、南に五、六○○メートルほど下がった場所になる。これが竜閑橋なら話が合うのだが・・・。

藤五郎が最初に住んだ場所について、『荏土図説』は鎌倉を主張する。

○主水の井 新かはや町河岸此処を俗に主水川岸と云
御用御菓子司大久保主水地所内にある名水也
先祖大久保藤五郎忠行 三州にて御小姓三百石領す 一向乱の時勇を励し軍中にて火炮に中て歩行不叶 上和田に居し常に菓子餅等を製する事を好度々献之 天正中江戸御打入二付御城近辺二可参由二付鎌倉へ引越す 又家製の餅を駿河餅と唱ふる由 後二御菓子屋と成女の製也 飯田町に屋敷給はり代々御用達
常憲院御代より男の製と成ると云 主水の名は天正御入国の時 玉川清泉を江府に通し上水の義申上 其功に依て主水の名給はり されば水の縁により此家にて主水と澄て唱ふるよし

尾張屋板江戸切絵図(安政六年版)を見ると鎌倉は竜閑橋のすぐ北西で、主水の屋敷の西手にあたる。江戸城築城にあたって鎌倉からの石材を陸揚げした鎌倉河岸にちなんだ地名である。現在も鎌倉橋が残り、主水の屋敷からもほど近い。
また、新革屋町(新かはや町)、本銀町(銀町)、本石町、鎌倉町は隣接しており、新革屋町は主水河岸に面している。史料によって地名に差があるが、区割りなどの変遷で町名が変わったこともあるのだろう。




■現在の、神田駅の南側、山梨中央銀行のあたりかな

『新撰東京名所図絵 神田区之部』(明治三十三年)には「旧幕府の御菓子師大久保主水の宅址は。新革屋町元乗物町の間即ち今の千代田町の東隅に在り。武鑑には白かね町二丁目かしと見ゆ。(中略)但同家は明治維新の際他に移転せり」とある。現在の地名で表せば千代田区鍛冶町6あたりで、山梨中央銀行の裏手あたりと思われる。幕末までここに住まいしていたようだ。

なお、「本銀町」「白かね町」「銀町」さらに「白銀町」は同じ町を指している。これについて『新撰東京名所図絵 日本橋区之部』では次のように説明している。

◎町名の起源
寛永の江戸絵図に、志ろかね丁、とあり。本銀町の名は、神田の新銀町に対しての名なるべし。銀を志ろかねといふは、白金の義にして、常にはぎむと呼べるを、ここには志ろかね、と訓ましむる也。古くは白銀とも書けり。



(2019.08.11)

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