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お菓子な旗本 大久保主水


29.蓮台院日宝と宇賀山王社について



■久良岐郡釜利谷に宇賀山王権現社を祀った蓮台院日宝


横浜市金沢区釜利谷、自性院(福松山慈眼寺)の境内に小さな社が祀られている。いまは寂れてほとんど注目されないが、寛永期に大いに賑わったという宇賀山王権現社である。釜利谷の堀之内福松山にあった小社を再興したのは初代大久保主水忠行の夫人、蓮台院日宝である。

『中世鎌倉の年長行事』(金沢文庫・テーマ展図録)

宇賀山王権現は、縁起によれば、中世に勧請されていた神社らしい。戦国期の後北条氏時代は、釜利谷の領主は遠山景氏とされ、景氏の娘が、徳川家の家臣・大久保忠行の夫人となり、その縁で大久保氏の別宅がもうけられ、宇賀山王権現社を興隆したと伝える。


この解説が依拠しているのは十代大久保忠記の『武州久良岐郡金沢之郷釜利谷福松山宇賀山王権現社略縁記』だろう。これによれば、蓮台院日宝は「奇瑞の霊夢」を感じ、小さな神社を再興。宇賀山王権現社として祀ったことになっている。

『武州久良岐郡金沢之郷釜利谷福松山宇賀山王権現社略縁記』

忠行の室か蓮台院妙乗日宝信尼通称いかは、小田原北条家臣旧釜利谷の領主、遠山神四郎景氏女なり。主水忠行、元和三年丁巳七月六日[法謚清浄院]身まかりし後その子忠元が幼なかりし間は、家事を守りたりし也。信尼寛永十一年甲戌七月廿一日(※1)、御当地神田福田村拝領屋敷隠居所にて奇瑞の霊夢を感じ、参州よりこのかた我家にて長だちたる所従に仙水清左衛門正純(※2)といふ者を此地に詣させて委(くわしく)尋さするに神まひたる小社有。まさしく示現とひとしかりしかば信心肺肝に徹し、子息忠元をして社を再興せしめ、坂本村古義真言宗自性院を兼別当に頼み、釜利谷の内中の坪といふ所にて神供の田二反を寄付し、日宝所持の御品を霊宝に収め、かつ子々孫々までも此御社を等閑にせずば繁栄疑ひなしと厳重に教諭なしおかれ、日宝尼寛永廿一年甲申六月廿四日没。

 ※1 古来より十一日霊夢と書つたへたれども、祭日廿二日なれば廿一日を十一日とかきあやまりたるもしれず。金沢名所□といへる本に九月廿七日とあるはあやまりなり
 ※2 法謚仙凉日證墓所谷中慈雲山瑞輪寺


霊夢を感じた蓮台院日宝は、子である二代大久保主水忠元に宇賀山王権現社を再興させ、神田二反歩を寄付した。そして、自性院住職を別当として祀らせた。寛永二十一年(一六四四)に蓮台院日宝は亡くなるが、没後二年して、二代大久保忠元はさらに一反歩を寄進している。そこまで入れ込む理由は何なのか。

『鎌倉攬勝考』は文政十二年(一八二九)に完成した植田孟縉が編んだ地誌だが、その「宇賀山王権現」の説明は次のように書いている。

『鎌倉攬勝考』

宇賀山王権現 釜利谷にあり。此社は大久保主水の先祖なるもの、謂れありて、日光の御神廟を崇め奉らんが為に経営しかど、憚る所多ければ、此號を山王権現と称號し奉るといふ。



なんと宇賀山王権現社の名は隠れ蓑で、内実は家康公を祀るものだという。そのつながりを知るには、釜利谷・坂本村のことを知る必要がある。

実は、釜利谷の坂本村は寛永年中に紅葉山御神領になった。
そもそも紅葉山とは江戸城内にあり、元和四年(一六一八)に東照宮が建立された場所である。東照宮は徳川家康を祀る神社で、駿河の久能山、日光・東照宮が有名だが、江戸城内にも建立され、家康命日には将軍や家臣が参詣する場となった。この紅葉山東照宮を管理したのが別当・知楽院(後の浅草・伝法院)で、寛永十三年(一六三六)に領地が与えられた。場所は武州久良岐郡坂本村で、現在の地名でいうと横浜市金沢区釜利谷町である。なぜ坂本村かというと、「浅草寺の僧忠尊が東照宮の別当も兼ねており、坂本村が忠尊の先祖伊丹氏の旧領だった関係から別当領とした」(『由緒書と近世の村社会』井上攻)という。忠尊は知楽院(伝法院)の僧で、知楽院は浅草寺の本坊である。こうした縁で坂本村が紅葉山御神領となり、諸役免除の特権も与えられることになった。
また、坂本村にある禅林寺は坂本村が紅葉山御神領となった後、忠尊が父の菩提を弔うために草創あるいは再建したした寺といわれており、御神領であることから家康の御真影も残されている。『由緒書と近世の村社会』(井上攻)によれば、村内で東照宮の祭礼が行われることとなった。御神体は家康の御真影で、村民のみ参加が許され、他村の者の参拝は禁じられていたという。
この禅林寺は、川を挟んで自性院すなわち宇賀山王権現社とは目と鼻の先にある。
そして、当然ながら、宇賀山王権現社は坂本村内にあった。

坂本村が紅葉山御神領になったのは寛永十三年(一六三六)で、蓮台院日宝の没年は寛永二十一年(一六四四)である。『宇賀山王権現社略縁記』では、蓮台院日宝が霊夢を感じ、子の忠元に宇賀山王権現社を再興させたとあるが、『鎌倉攬勝考』に「謂れありて、日光の御神廟を崇め奉らんが為に経営」とあるように坂本村が紅葉山御神領になったため、近くにあった小社に目をつけ再興した、と見るのが自然である。
蓮台院日宝がここまで家康に忠義をつくす理由は何なのだろう。やはり、二代主水が家康の御落胤なのだろうか。


(2019.09.04)

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