- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


30.二代大久保主水は、町年寄・樽屋からの養子


宇賀山王権現は、蓮台院日宝が「子息忠元をして社を再興せしめ」た社である。その忠元、すなわち二代目大久保主水(十右衛門忠元)について、『御用達町人由緒』(享保十年・一七二五に書き上げ・提出されたもの)は次のように書いている。

藤五郎養子 実従弟
実樽屋藤左衛門次男

やはり初代主水に実子はなかったのか、藤五郎(初代主水)の実従弟を養子として迎え入れているようだ。すなわち、十右衛門忠元の母親は藤五郎(初代主水)の父・忠成の姉妹で、伯母あるいは叔母にあたることになる。
では、樽屋藤左衛門は何者かというと、奈良屋市右衛門、喜多村弥兵衛とならぶ江戸の町年寄の一人である。町年寄は町奉行の下にあって町触の伝達、上水の管理、調停・調査などを職務とし、町人の最上位として名字・帯刀を許されるなど、武士とほぼ同等の権威を与えられていた存在である。樽屋、奈良屋、喜多村いずれも元々は家康の家臣で、江戸打入り後に町人身分となって町年寄に就任したという。

樽屋の先祖は刈谷城城主だった水野右衛門太夫忠政である。子の忠頼は今川氏に仕え、孫の水野弥吉は家康に仕えた。また娘は徳川家康の生母・於大の方で、家康と弥吉は従兄弟関係にあり、弥吉は家康から一字をもらい康忠と名乗った。天正十八年(一五九〇)の江戸打入り時の当主は康忠で、町年寄となったのは康忠の子・樽藤左衛門忠元からである。初代の町年寄就任は天正十八年(一五九〇)と、江戸打入り直後のことにある。

ここで気がつくのが二代目大久保主水が十右衛門忠元で、初代樽藤左衛門の幼名が忠元と、名が同じであることだ。これは偶然ではないだろう。というのも三代大久保主水忠辰は樽藤左衛門忠元の実弟で幼名が三四郎なのだが、この幼名が康忠の通名である三四郎と同じだからだ。
康忠は三方ヶ原の戦いで武田側の家臣を十二人討ち取ったので、「三四郎」と名乗れと家康から命じられた経緯があり、長篠の戦いで康忠が信長に酒樽を献上したことから、樽という姓がついたという。三代大久保主水忠辰の幼名「三四郎」は、この樽三四郎康忠の「三四郎」にちなんだものとみて間違いないだろう。
では、大久保十右衛門忠元、大久保三四郎忠辰の父親はどの藤左衛門なのか。初代大久保主水の没年は元和三年(一六一七)、二代目主水・大久保十右衛門忠元の没年は慶安元年(一六四八)、三代目大久保三四郎忠辰の没年は延宝八年(一六八〇)である。二代目主水忠元と三代目主水忠辰は、兄弟。この二人と初代主水(藤五郎)は従弟同士にある。一方、初代から六代までの樽藤左衛門の生没年は分かっておらず、町年寄就任年が分かるのみ。はたして二代目主水忠元と三代目主水忠辰の父親は、誰なのか。それぞれの年齢が分かっていないので断言はできないが、三代目ではなさそうだ。生母が初代主水よりも年上であるなら、初代の可能性が高いような気がする。
ちなみに、初代から三代目までの、町年寄就任年は次の通りである。

初代樽藤左衛門忠元 天正十八年(一五九〇)八月
二代樽藤左衛門元次 元和元年(一六一五)
三代樽藤左衛門元政 慶安三年(一六五〇)

このように、二代主水は家康との関係は浅からぬものがあったとみてよいだろう。蓮台院日宝が紅葉山御神領である釜利谷の坂本村に、二代大久保忠元の名で宇賀山王権現社を再建したのは、こうした背景と無関係ではないのかも知れない。

・樽屋から従兄弟を養子にしたことで、家康の家系につながる
・実は蓮台院日宝の生んだ御落胤で、それを隠すため従兄弟にした
・御落胤は女子で、そこに樽屋から従弟を養子にした
・初代主水には実子(女子)があり、樽屋から養子を取った

など、いろいろと可能性は考えられるが、いずれも根拠のない遊びである。とはいえ、宇賀山王権現への莫大な寄進や、『鎌倉攬勝考』のいう「大久保主水の先祖なるもの、謂れありて、日光の御神廟を崇め奉らんが為に経営しかど、憚る所多ければ、此號を山王権現と称號し奉る」などの記述を考えると、蓮台院日宝の霊夢の裏には、何か隠された事実もありそうだ。三田村鳶魚のいう御落胤説も、まんざら根拠のないことではないかも知れない。想像がふくらむばかりである。




(2019.10.01

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