樽屋という名前が出てきたところで、町年寄について述べていく。各町には町役人が存在したが、町年寄はそうした町役人の上にある筆頭役人である。『大江戸生活事情』(石川英輔)に、江戸の町人の制度がやさしく書かれている。
町年寄は原則として世襲で、慶應四年(一八六八)に廃止されるまでつづいた。さて、興味深いことにこの町年寄の仕事の中には、上水の管理もあった。上水といえば、大久保主水が最初に手がけたとされる江戸の給水施設である。因縁浅からぬものが感じとれるではないか。その管理がはじまった時代は定かではないが、『江戸町人の研究第四巻』所収の「町年寄」(吉原健一郎)では、慶安四年(一六五一)ごろに町奉行所が上水管理をはじめており、奈良屋、樽屋、喜多村の町年寄が代官として上水を管理しはじめたとしている。上水が幕府の直轄となり、その指示によって町年寄が実務を行なったのである。玉川上水の完成は承応三年(一六五四)であるから、まず神田上水の管理からはじまったようだ。その後、寛文六年(一六六六)には神田上水・本所上水、玉川上水を管理する奉行が任命された。もっとも、支配の実務を町年寄が行なうのは変わりがない。江戸の町奉行所が、三百人たらずの信じられないほどわずかな人数で行政を担当できたのは、自身番に代表されるような地元民による自治組織があったからだ。
自治組織の頂点にいたのが、町年寄だった。町年寄世襲で、奈良屋、樽屋、喜多村の三家があった。民間側の都知事といったところだろうか。幕府から与えられた土地の一部を役宅とし、あとは商人に貸してその地代で業務を行った(略)。
町年寄の業務は、町触つまり町奉行所から町方に対して出される通達を伝えること。人別つまり戸籍の集計、商人や職人の統制、その他さまざまな調査や調停などだった。
町年寄の下には、数町から十数町を支配する町長とか区長とかいうべき地位の町名主がいた。名主は、町年寄の下請けのようなものだから、町触を住民に伝えること、人別改め(戸籍調査)、訴訟の和解、不動産売買の登記事務、あるいは、町奉行所に訴える前の段階での紛争の調停など、住民に近い公用の仕事をした。
当時の江戸町奉行所の人数が、三百人足らず。治安を守る役割の同心は、南北両町奉行所を合わせて二十四人しかいなかったという。町人が五〇万人もいたのに役人がこれだけの数で済んだのは、町人側に自治組織があったからだ。
さらに、町名主の下には家主が五人組というのをつくり・・・(略)
以下、樽家の由緒については前項「30.二代大久保主水は、町年寄・樽屋からの養子」で述べたが、ここではより詳しく述べていく。
『重宝録』や『享保撰要類集』などに採録されている『町年寄由緒書』によれば、樽屋藤左衛門の先祖は水野右衛門忠政に遡る。その七男である弥平太は永禄三年に三州苅屋で討ち死にしている。その嫡子である水野弥吉はこのとき十八歳。翌年家康に御目見えし、奉公。家康の一文字をもらって水野康忠となった。元亀三年(一五七二)味方が原の合戦のときに武田方の十二人の首を討ち取り、また、大久保吉五郎が戦場で困っているところを助けたりしたことにより、家康から「名前を三四郎と改めろ」といわれたという。三×四=十二というわけである。さらに、天正三年(一五七五)の長篠合戦では、三四郎は織田信長に酒樽を献上した。この戦で、三四郎は信玄の家来である松下金太夫を討ち取っている。それを信長が「樽なかなかやるな」と言ったことから、以後「樽」がニックネームとなり、樽三四郎と呼ばれるようになったという。戦功がそのまま名前になったわけだ。また、天正九年(一五八一)の武田勝頼との戦いでは、桔梗の花を献上。紋を桔梗に改めている。こうした働きの結果、樽三四郎は遠州の町々を支配するよう命ぜられるようになった。家康が天正十八年(一五九〇)に江戸入国する際に、江戸町支配と神田玉川両水道の支配を命ぜられ(と、由緒書きに書いてあるが、この時代にはまだ玉川上水は存在しなかったので、これは誇大表現だろう)、関口・小日向・金杉三か村の代官兼町年寄となっている。
武士だった水野弥吉康忠改め樽三四郎がなぜ町人身分になったのか、その理由について「武徳編年集成」では次のように書かれている。
或曰、水野弥吉康忠、中頃三四郎と改め、筧八右衛門とともに遠州の町司たりしが頃年、神君の御勘気を蒙のり、貨殖を業とし、樽三四郎と称す。今度、和州奈良の奈良屋市右衛門並に北村弥兵衛と共に江戸町年寄ら命ぜられると云
ここで四代目主水(十五郎忠武)の話をしてみたい。出生に関しては、「御用達町人由緒」に「三四郎実子母新庄宮内女」と但し書きがある。さて、谷中・瑞輪寺の大久保主水墓所には大久保主水十五郎忠武の墓石が独立してあり、側面には「四代大久保主水藤原忠武墓」とある。そしてさらに、裏面に「奈良屋藤蔵四十四歳」と彫られているのである。これが建立者ならば「建立」とあるだろうし、年齢まで彫るものなのかよく分からない。ということは、忠武は奈良屋からの養子なのだろうか? しかも、樽屋でなく奈良屋の名前が登場するのが唐突である。そもそも二代目十右衛門忠元は樽藤左衛門からの養子で、三代目三四郎忠辰は忠元の弟。その実子なら、わざわざ奈良屋の名前を彫る必要はないはず。
可能性として考えられるのは、三四郎忠辰は樽屋から奈良屋に養子に出ていて、それを大久保家で養子に迎えたということ。または、十五郎忠武が大久保家から奈良屋に養子に出されていたのを、何かの理由で大久保家に戻した、のかも知れない。いずれにしても非常に複雑で、判定する材料に欠ける記述ばかりである。分かることは、初代主水(藤五郎)には男子がなく、樽屋から迎えたということだけだ。実子として女児があった可能性もあるが、その婿に従弟をあてがうことはないだろう。なので実子がなかった可能性は高いといえる。もっとも、想像を逞しくすれば、藤五郎が鉄砲を被弾して腰が立たなくなる以前に実子を設けていた可能性も、まったく否定することはできないたろうが。
●主水の屋敷は、町年寄の屋敷と近かった
江戸切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」を見ると、町年寄の屋敷の場所が分かる。本町一丁目(いまの日本銀行の一角)に舘市右衛門(奈良屋)*、本町二丁目(三井タワーの裏手)に樽藤左衛門、本町三丁目(COREDO室町の通りを挟んだ向かい側、リーガルあたり)に喜多村彦右衛門の名前が見える。大久保主水の屋敷は、ここから北に三〇〇メートルも行った今川橋のたもとにあった。互いの行き来は容易に行われていたと考えられる。
*『江戸の町役人』吉原健一郎に、町年寄のうち名字を許されていたのは喜多村だけで、樽屋と奈良屋は屋号。奈良屋が名字を許されたのは天保五年(一八三四)。喜多村が名字御免になったのは文政七年(一八二四)という記述があるが、はっきりしたところは分からない。
また、町年寄三家には婚姻、養子縁組などの関係が以前からあって、親戚どうしになっていたようだ。また、奈良屋は御用彫物師後藤家から養子を得るなど、御用達町人と町年寄は同士の婚姻関係でも同格と考えられていた。樽屋はもともと家康に使える武士なので三河時代から交流がもあったろう。また、喜多村、奈良屋とも、江戸入国以後は関係が深くなったと思われる。そんなこともあって、町年寄の樽家、奈良屋に女子を嫁がせたり、養子を取ったりするのも、自然のことだったと思われる。
(2019.10.07)