植物学者 大久保三郎の生涯


3 アメリカ留学

 明治四年(一八七一)三月一日、一行は神田小川町の藩邸を後にし、横浜・吉田橋関所外の竹野屋旅館に到着する。そして三月三日(旧暦)、大久保三郎ら七名はグレート・リパブリック号に乗船し、横浜港を後にした。『勝海舟日記』は「当三日、竹村初め七人出帆、ワルス并びに松屋、厚き世話相成り候旨書状」と書いているが、竹村の名前が代表として書かれているのは彼が最年長だったからだろう。静岡藩から一緒に旅だったのは、以下の七人である。

 竹村謹吾(二十五) 帰国後、徳川家達に付き添って渡英
 小野弥一(二十五) 慶應元年に横浜でフランス語を学習、米国経由でフランスに留学
 浅野辰夫(十六) 権大参事浅野次郎八の子息
 川村清雄(十七) 米国から渡仏、のち画家に
 大久保三郎(十六) 大久保一翁子息

 以上が小姓仲間で自費留学(徳川家が負担)、これに県費負担の以下の二人が加わった。

 林糾次郎 医師志望
 名倉納  医師志望

 年齢は数えなので、このとき三郎はわずかに十四歳と一〇ヵ月。いまでいうなら中学三年生だ。静岡藩には洋学を教授する静岡学問所もあったし、そこでは幕末にイギリス留学を経験し、後に帝大総長にもなる外山正一も教授として在籍していた。だから西洋的な知識に抵抗はなかっただろうが、それにしても年若くしての渡米だといえる。もっとも、同じ年に満六歳で岩倉使節団とともに渡米・留学した津田梅子がいるので、驚くには当たらないかも知れないが。
 『明治初期静岡県史料』によると留学先や目的、その他の情報は「国名 米利堅、学科 語学、年限五ヶ年、学費 六百弗」となっている。まずは語学修得という名目での留学だったようだ。同じ船には維新に功績のあった公家の岩倉具視の長男・南岩太郎、幕府の奥医師から維新後に軍医となった松本良順の子・松本桂太郎らも乗っており、日本人乗客は合計二十四人。下等船室の待遇はひどくて大半の日本人が追加料金を払って上等に移ったが、静岡藩の一行は船底で頑張り抜き、二十一日後の新暦五月十三日に予定通りアメリカ・サンフランシスコに到着した。三日後、開通間もない大陸横断鉄道に乗車し、サクラメントから列車の旅にでた。七日後、ニューヨークに到着。ホテルには、四年前から留学している勝海舟の息子の小鹿、そして、薩摩藩の杉浦弘蔵が訪れてきたという。
 一行の留学先は、ニュージャージー州ニューブラウンズウィックにあるライリンという教師が経営する学校だった。当時、日本には御雇い外国人が何人かやってきていたが、この学校はその中のフルベッキと関係があり、日本人留学生を多く受け入れていたようだ。彼らはここでグラマースクールか科学学校かに入り、言語や風俗、習慣に馴染み、それから他の大学に移るのが一般的だったという。ライリンの学校には岩倉具視の子や勝海舟の子・小鹿など併せて十五人の日本人が寄宿舎にいて、寂しい思いをせずに済んだようだ。
 三ヵ月後、米国生活のための基礎的素養を身につけると、大久保三郎、竹村、浅野、川村の三人はブルックリン近郊のフラットブッシュにあるアカデミースクールの寄宿舎に移った。ここで八ヵ月過ごし、いよいよ明治五年(一八七二)の春、ニューヨーク州のオールバールを経て、夏にはミシガン大学系の大学へ入学した。三郎は十六歳になっていた。
 三郎がミシガン大学で何を学んだのか、その詳しい記録は残っていない。しかし、帰国して後、植物学の道に進んだことが分かっているので、おそらく植物学を専攻したのだろう。『植物文化人物事典』を見ても、ミシガン大学で植物学を学び、明治九年(一八七六)英国に渡り研究を重ねた、と書いてあるだけである。いつ、どの時点でその道に進むことを決意したのか、誰に師事し、どのようなことを学んだのか、学生生活がどのようなものだったのかも定かではない。そもそも小姓仲間で語り合っているときは「政治学を学ぼう」という思いがあったようだ。もっとも一緒に留学した川村清雄は日本にいるときから洋画を志し、米国からパリへ渡って画家として大成しているので、三郎にも思うところはあったのかも知れない。いずれにしても想像の域をでない。


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