植物学者 大久保三郎の生涯


4 帰国、そしてクララ・ホイットニーとの出会い

 その三郎は、いつ帰国したのだろう。『クララの明治日記』によると、どうやら明治九年(一八七六)の終わりか明治一〇年(一八七七)の始め頃だと思われるのだが、この『クララの明治日記』とは何かというと、クララ・ホイットニー(一八六〇〜一九三六)という米国生まれの少女の日記である。明治八年(一八七五)八月三日に十四歳で来日したのだが、筆まめな彼女はこま目に日記を付けており、明治八年から明治十七年まで(一八七五〜一八八四)の分が活字になっている。そして、日記の中には維新後の有名人が、日本人外国人を問わず数多く登場する。たとえばイギリス公使パークス、フェノロサ、グラント将軍、勝海舟、福澤諭吉、森有礼、大鳥圭介、大山巌、新島襄、徳川家達、その他その他・・・。当時の日本の政治、文化に関わる豪華なメンバーが勢揃いしており、しかも、偉人伝でも何でもなく、クララという少女の目を通した普段着の様子が活写されているので、ことのほか面白く読むことができる。なんとその日記の中に、我らが大久保三郎のも登場するのである。
 まずはホイットニー家のことを紹介しよう。父ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーはニュージャージーのニューアークにあった商業学校の校長で、妻アンナとの間にウィリス(兄二〇歳)、クララ(本人十四歳)、アディ(妹七歳)の三人の子があった(年齢は来日時)。このウィリアムスの商業学校で最初に学んだ日本人は、冨田鉄之介である。
 冨田は仙台藩士の子で、文久三年(一八六三)、二十九歳のとき東京・赤坂氷川町にあった勝海舟の氷解塾生となった。慶応三年に藩の留学生として渡米し、いったん帰国したが再び渡米し、明治七年(一八七四)まで米国に滞在していた。この間、明治三年(一八七二)五月にニューヨーク在留領事心得、副領事などを歴任しながらウィリアムの学校でも学び、ホイットニー家と親交を深めていた。その当時の駐米代理公使が森有礼(明治十八年に初代文部大臣)で、日本人留学生の監督も行なっていた。森もホイットニー家と交流があり、ウィリアムは冨田と森に要望されて、日本に来ることになったのである。
 森は在米中に、これからの日本が諸外国と太刀打ちしていくためには商業は欠かすことができないと考えるようになり、そのために商業を専門に教える学校を設立することが急務と考えるようになっていた。そこで、このことを当時の為政者に進言したのだが、森の考え方は当時としては革新的すぎて理解されなかったらしい。そこで森は東京府知事大久保一翁に相談するのだが、一翁は右大臣岩倉具視にハナシを通し、設立の件は聞き届けられた。しかし府には資金がないので一翁は東京会議所の会頭・渋沢栄一に援助を願い出た。東京会議所とは、江戸時代に松平定信が市民に倹約を勧め、貯蓄していた共有金を管理していた組織である。その共有金を元手に商法講習所を開校しようとしたのだ。話は順調に進んだが、渋沢は外人教師を高給で校長に迎え入れることに難色を示した。そんな日本側の事情をホイットニー一家は知らない。日本政府が新たに設立する商業学校長になるつもりで日本にやってきてみれば、様々な事情から学校はまだ正式に設立されていない。もちろん、場所も決まっていなければ校舎もない。官立の商業学校設立を断念した森は明治八年(一八七五)九月、銀座尾張町に私設の商法講習所を開設するというかたちをとって、講義を開始することになった。森有礼と東京会議所との約定書によれば、商法会議所は私立学校であり、運営の責任は森有礼、福沢諭吉、箕作秋坪の三人にあることになっている。また、会議所は共有金からウィリアムの給料と雑費などを支出することを取り決めている。そして、ウィリアムを教師として雇う(五年契約)ことにし、なんとか面目は保ったかたちになった。なお、開校に当たって勝海舟が多額(千円)の寄付を行なっているのは、。勝と冨田鉄之介、森有礼との関係からだろう。
 その後、講習所は森の自邸のある木挽町(現在の東京・銀座)に移り、教師館などもつくられ、ホイットニー一家はそこに住むことになった。しかし、十一月になって森が清国駐在公使を命ぜられ、森は講習所の管理を東京会議所に一任。自邸など一式も東京会議所に寄付してしまう。さらに翌明治九年(一八七六)には講習所の所管が東京会議所から東京府に移り、現在の一橋大学へと発展していくのであるが、それはまだ先の話。とにかく、こうした日本側の事情に振りまわされながらも、ウィリアムは商法講習所で教鞭をとることができるようになった。ちなみにウィリアムの年給は二千五百円。助教の日本人教師・高木貞作が月給四〇円だからその五倍以上である。

 さて、『クララの日記』をひもといてみることにしよう。日記の明治一〇年(一八七七)二月十七日には、ホイットニー一家が徳川家達の屋敷(赤坂)に招待されたときのことが描かれているのだが、そこに三郎が初めて登場する。このとき主君である家達はクララと同年齢の十六歳。ここで三郎は、クララに家達の従者あるいは護衛のひとりと見なされている。もともと渡米前から小姓だったのだから間違いではないが、帰国しても同様の役目を仰せつかっていたのだろう。
一家が玄関で家達に挨拶をすませると、クララとはすでに顔見知りである徳川継承者の守り役、滝村鶴雄が家の中へと案内してくれた。客間には家達が座っていて、その周囲にはお付きの者たちが忙しそうに行き来している。その様子をクララは次のように書いている。
「滝村さんが入って来られて、英語がよくしゃべれるという紳士を紹介なさった。私たちのそばにいた一人のサムライが、私たちに向って話し始めたが、その人は五年以上アメリカにいたことがあって、たった二年前、ニューアークの私たちのうちにきたことがあるそうだ」と書かれているのは、三郎と一緒に留学した竹村謹吾である。竹村はウィリイやクララ、母のアンナに話しかけ、「日本人の肌が黄色いのは、日本のお茶のせいだ」などとジョークまで飛ばし、一同は一気に打ち解けていった。
 それでは、三郎はクララの目にどのように映ったのだろう。
 竹村との会話で「私がハンカチで笑いを隠すと、戸のそばにいた、いたずらっぽいきれいな黒い目の、際立ってハンサムな若者が目を留めてこちらを見ていた」と、三郎の視線をしっかりとらえていた。その後、庭を散歩しているうち、いつのまにか三郎はクララのそばを歩いていたらしい。「空気はふるさとの六月の空気のように爽やかだったので、私は思わず、何となくいつもそばを歩いていた連れ、つまり例の目もとの涼しい若者にそう言った。するとその人は力を込めて、まるでアメリカの春がどんなものか見て知っているかのように肯定したので、私はこの人が外国にいたことがあるのかなと思い始めた。散歩はとても楽しく、私の連れは最高にいい人で、又とないほど婦人にいんぎんであった。坂を上るのに手を貸して下さったり、とてもかわいい花を摘んで下さったり、景色を説明したり、花の名前のラテン語名まで教えてくださった」
 この時代、日本はかなり男尊女卑が激しかったはず。男女が肩を並べて歩くことなど、考えられなかった。そんななかで三郎はクララにやさしく丁寧に対し、坂では手を貸したりして、西洋の女性を扱い馴れている様子が見える。ということは、留学中もこうした習慣、マナーを身をもって体得してきた、ということなのだろうか。社交的で女性にやさしい三郎の姿が見て取れる。また、注目したいのが、花を摘んだり、ラテン語で花の名前がすらすらと出てくるところだ。これは、それなりに植物学を学んできたということの例証になるのではないかと思われる。植物の学術名まで使って女性とのコミュニケーションを円滑に行なおうというところなどは、なかなかのやり手だな、と思わせてくれるではないか。さて、まだつづきがある。
 庭の散歩を終えて室内に戻ると「私の親切な友〈この時までに私たちは友だちになっていた〉はそれで紙を作るという珍しい木を見せて下さった」と、これはコウゾかミツマタだろうか。またまた植物に関する知識を披露している。なかなかのもてなし上手といってよいだろう。
 邸内を回ってクローケー遊技場に戻ると、滝村が「クローケーするか」とみんなに訊いてきた。すかさず三郎が「やりましょう」と叫んだようだ。そこでクララは「滝村さんに、この感じのよい青年の名前をそっと尋ねたら、この国の偉い方でいらっしゃる、元老院議官大久保一翁閣下の令息(三郎)に外ならぬというのでびっくりした」「アメリカとヨーロッパから帰られたばかりで、アメリカには五年間いて、ニュージャージーのニュー・プランスウィックと、ミシガンのアン・アーバーで勉強したという。その上、ヨーロッパを一年旅行したというので、私はこの若き案内者をますます尊敬の目で眺め、前から抱いていた好感が倍増した」と、クララの心をがっちりとらえてしまった様子である。それはともかく、このクララの記述によって三郎の遊学の履歴が記録となって残されたのだから、得難き史料となっているわけである。
 さて、クローケーとは、おそらくcroquetのことだろう。クララと三郎はパートナー同士となり、一緒にプレーした。「いつも同じ門柱を目ざし、大久保さんは私のボールを父親のような目で見守っていた。ボールは皆、似ているので、私は自分のを他と区別するため、自分のボールにCと書いた。大久保さんがそれを見て、なぜかと尋ねるので、自分の名前の頭文字だと言うと、大久保さんは歩いて行きかけて又戻り、何という名前かと尋ねた。私が答えると、ゆっくり繰り返していた」クララに好意を抱いて接近したと思っていたが、互いにまだ自己紹介をしていなかったということなのだろうか。ちょっととぼけた感じの三郎の様子が日記には書かれている。
 クローケーが終わり、クララの母親を交えて夕暮れまで語らい、屋内に入ることになった。そのとき、家達は近道をしようとして塀の上に飛び乗った。すると三郎は笑いながら、すでに十四歳となった家達の踵をつかんで押さえ込み、塀にまたがらせてしまった。招待客たちとクローケーをしたり語らいながらも、近侍として徳川家の世継ぎに万一の事故が発生しないよう見守っていたからの行為のだろう。
 家の中に入ってクララが立体写真を覗くと、三郎はナイアガラの滝やパリのガス灯を面白く演出したりして、クララに喜んでもらえるよう気を遣っている。夕食のときは偶然にもクララと三郎は隣り合わせになった。クララは「どうしてそうなったのかは知らないが、とにかく私の隣の席にはあの愛想のよい青年がいた」と書いているのだが、もちろんこれは三郎が意識的に近くに行くようにしていたからではないだろうか。夕食後は、みんなでロットーをした。ロットーがどういうゲームか分からないが、数字をつかった数合わせのようなものだろうか。三郎は「数え手」で、クララは三郎の隣に座り、やり方を教えてもらいながらのゲームがつづいた。クローケーもそうだったが、このロットーでも家達が勝ったようだ。このことに、クララは「どうしていつも勝つのかしら?」と疑問を投げかけている。近侍たちが自分たちの殿様に、故意に負けていることに気がついていないようだ。
 ホイットニー一家の面々が帰宅する時も大騒ぎだった。「私が、テーブルにあったのをほめたもので、大久保さんは温室の桃の花を持って来て下さるし、滝村さんは母にショールを掛けて下さり、竹村さんは人力車を呼んで下さった」など、近侍の青年たちは細かなところに気を使い、世話を焼いてくれたことにまで言及している。
 クララは家達の屋敷に、男しかいなかったことを不思議に思ったようだ。どうして女中がいないのかは分からないが、そういうしきたりだったのだろうか。また、クララは三郎に、この屋敷に住んでいるのか、と尋ねている。それに対して三郎は「家は麻布にあるけれども、ほとんど将軍家で過し、他の人々もずっとここにいる」と答えたようだ。クララは「あの若者たちが、誰にも邪魔されずに楽しく過ごしているなんてすばらしいことだ。女の人も、年寄りも、子供たちもいなくて、彼らだけで幸せな家族のように、全く幸福に暮らしている。給仕、料理人などに至るまですべて男だったが、男同士で婦人をあんなによくもてなしてくれた腕前には感服せざるを得ない」と日記に記している。三郎とクララの初対面、三郎の彼女へのもてなし方は、大成功だったといえるだろう。クララ十七歳、三郎二〇歳のときのことである。

●クララ・ホイットニー関するホームページ
クララの明治日記
女子教育の先駆者たち
●クロケットについて
How To Play Croquet


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