植物学者 大久保三郎の生涯
5 クララ・ホイットニーと矢田部良吉
ここでクララが見た矢田部良吉のことを書いておこう。なぜなら三郎は後に東京大学理学部植物学教室に奉職することになるのだが、そのとき教授として植物学教室を率いていたのが矢田部で、三郎の上司でもあるからだ。矢田部は当時二十七歳。開成学校(東京大学の前身)の教授から外務省に転じて米国コーネル大学で植物学を学び、明治九年(一八七六)に帰国すると開成学校の教授に就任していた。矢田部は自ら植物学教室を開設し、日本の植物学をリードしていくことになるのだが、一方でかなりの変わり者でもあった。そんな矢田部の普段の人となりを、クララ・ホイットニーは日記に活写しているのである。
クララが最初に矢田部に会ったのは明治九年(一八七六)の九月二一日。そのときの印象を、次のように書いている。「ニューヨーク州のイサカで六、七年勉強をして、帰国したばかりの青年がみえた」「快活で垢抜けていて、外国風に洗練された自分の物腰を誇りとしている。ところがそれだけではなく、矢田部氏は無神論者でもあったのだ! 洗練された屈託のなさと、紳士然として人を見下すような態度を身につけ、当たりさわりのない物柔らかな口調で話すだけに、かえって無作法な人たちよりも始末の悪い無神論者の一人だったのだ」
クララが警戒心を抱くのも当然のこと。母親のアンナを筆頭にホイットニー家は敬虔なクリスチャンなので無神論者には手厳しいのである。
その後も矢田部はたびたびホイットニー家を訪れているのだが、突然訪問して長居したり、なれなれしくクララの手をとったり、週に何度もやってきたりと、クララたちをうんざりさせていた。挙げ句に、矢田部はクララに会いたくてホイットニー家にやってくる、という噂が宣教師の間で広まるなど、クララを困惑させていた。どうやら矢田部は、クララが目的で足繁くホイットニー家を訪れていたようなのだ。
そんな矢田部が明治十一年(一八七八)の二月末に結婚することになった。そのニュースを聞いてクララは「とにかくお目出たいことだ」「私はあの人を追い払うことができて有りがたい。あのうぬぼれと取り入るような態度は気にくわない。初めの珍しさが消えてからは、あの人がきらいになった。母は初めからきらっていた。第一、年齢のことで私をだましていた --- もう二十八かそれ以上なのに、私には二十二だと言った。とにかくやれやれだ」と、せいせいした気分で書いている。
そもそもホットニー家が日本にやってきたのは、母アンナの伝道活動という側面も大きかった。しかし、宣教師でもないのに布教活動に熱中するアンナに対し、あまり快く思っていなかった在日宣教師もいたという。どうもアンナには、伝道活動になると周囲のことが見えなくなるような、押しつけがましいところがあったようだ。このアンナに教育された兄ウィリイやクララと、無神論者の矢田部とで話が通じるはずがない。もっとも、矢田部がいささか自意識過剰気味で多少の虚言癖もあり、他人に対する思いやりに欠けていたらしいことは認めざるを得ないとは思うが。