植物学者 大久保三郎の生涯


6 クララは三郎がお気に入り?

 いっぽうでクララの三郎への評価はなかなかのもので、明治一〇年(一八七七)三月十四日の日記には「昨夜、大久保さんと竹村さんが、箕作さんに会いに、うちにおいでになるはずだったのに、定刻に、箕作さんしか現れないのでがっかりした。理由はわからないが、何かの手違いでなかったら怒りたい気がする」と書いてあり、大久保や竹村と会話することを待ち望んでいた様子がうかがえる。
 同年四月三日、今度はホイットニー家が家達をディナーに招待した。やってきたのは家達、大久保三郎、滝村、竹村、須田、大久保業(三郎の弟)である。またクララの兄ウィリイが、勝海舟の三男の梅太郎を連れてきた。
クララは日記にこう書いている。「大久保さんの弟さんが私の隣に坐っていたが、外国の少女には慣れていないのでなかなか話そうとせず、私が会話の糸口を開こうとすると、ただ空を見つめて「ええ」と言うだけだった。言うまでもなく会話の中心は、父、母、滝村さん、大久保さんで・・・」
 その後、コザーク(引き玉)という遊びをして和み、夕食。その後も、二人の競技者が目隠しをしてスプーンで食べさせっこするゲームなどをした。
「スプーンの水を相手の口へ入れようとする努力は、あまり滑稽で見ていられない位だった。一度は大久保さんと須田さんが一緒に坐り、大久保さんが須田さんの首に水を流し込んでしまい、又須田さんは大久保さんの耳にスプーンを入れ、見ているみんなはどっと大笑いした」と、和やかな様子がうかがえるのだが、明治の始めに外国人たちとこんな遊びをしていた人々がいたことに、驚いてしまう。その後クララは三郎と羽根つきをしたり、みんなで水芸をしたりした。さらにクララとアディ、ウィリイが歌を歌い、お茶を楽しんで夜の九時三〇分にお開きとなった。

 五月二十三日には、気球見物にたくさんの客がホイットニー家に集まった。気球を上げたのは築地にある海軍省で、その敷地が木挽町のホイットニー家の露台からよく見える。それで二十一日にもたくさん人が訪れたのだが、この日も気球が上げられたとみえる。しかし、勝海舟一家と滝村一家、徳川家達らを招待しただけなのに、その従者や家族、友人なども含め総勢三十六人の訪問客が集まってしまった。もちろん三郎も家達の随員としてやってきていた。
「気球に飽きて来ると、皆私の後について家中を見て回ってとても面白かった。母の部屋に入ると、私の部屋だと思ったらしく、あれもこれも細かく点検し始めた。徳川さんはベッドに飛び乗り、きしむ音を面白がっていた。大久保さんは手鏡を取り上げて、自分の顔を熱心に眺め、勝さんと滝村さんは飾り棚にのっている骨董品を一つ一つ調べていたが、滝村さんはその中の幾つかについて貴重な知識を提供して下さった」
 現在の感覚では不躾この上ないような訪問客の行動だ。しかも、みな子供ではなく一人前の大人がこの始末である。外国人が珍しく、その生活内容や持ち物に興味があったのだろうが、みな子供のようにキョロキョロと部屋の中を見ている様子が面白い。とくに外国人の娘クララの部屋には、よほど興味があったのだろう。もっとも、それが母親の部屋であることを後から知らされたのかどうかは分からないが。
 この日も三郎はクララに優しく対している。日記には「大久保さんは特に私に優しくして下さった」とあり、夕食のときには「大久保さんは名高い日本のお菓子、カステラの製法を送って下さると約束なさった」という。さて、その手紙は翌々日の二十五日に到着し、そこで三郎は「もしよければうちへ来て作り方を教えてあげたい」と書いている。しかし、クララの反応は「とてもおどけた手紙だが、カステラの作り方自体は大したことのないものだ」となんとも素っ気ないものだった。なにしろ普段から母アンナが手料理をつくっていて、後にそのレシピを元に明治十八(一八八五)に『手軽西洋料理』という料理本を上梓してしまうほどのクララからみたら、カステラのレシピはあまりにも単純すぎて、わざわざ教わりに行くほどのこともなかったのだろう。

六月八日、三郎は家達とともにホイットニー家を訪問している。家達が三日後の月曜に、三郎の弟・大久保業、竹村など随員五人を引き連れてイギリスに行くことになったので、そのお別れを言いにやってきのだ。しかし、突然の訪問だったたのか、クララはとても慌てている。
「今朝、お祈りの用意をしていると、人力車が二台やって来て、徳川さんと大久保三郎さんが降りた。さあ大変! 生徒たちは客間から飛び出し、私は二回に駆け上ってきれいなカラーをつけ服装を整えた。それから下へ降りて行って徳川さんと握手し、大久保さんには少し冷たくお辞儀をした。大久保さんは今まで握手をなさらなかったのに、今日はなさろうとしたのだが、私は、説明できない片意地から、何とも思っていない上杉さんや、嫌いな矢田部さんのような人には愛想よく快活な態度が取れるのに、好意を持っている人には冷たくなるか、照れてしまうか、なのだ。自分自身に愛想がつきてしまう。大久保さんがカステラのことに触れた時も、心からお礼を言いたかったのに、儀礼的なお礼の言葉を述べ、作るのを手伝いに来て下さることについては一言も言わなかった。それでいて実は何か言いたくてたまらなかったのだ」
 これを読むと、クララは三郎に好意以上の感情を抱いているようにも見える。もちろん他の日本人と比べて、ということだとは思うが、実際はどうだったのだろう。それにしても、「嫌いな矢田部さん」とはっきり言い切っているのが面白い。
 さらに、家達の渡英に関してクララは、「イギリスに三年いてそれかにアメリカへ行かれるそうだが、イギリスの、古い栄光を誇る物を見た後でアメリカを見たら、余りにも対比が過ぎるだろうから、アメリカが先ではないのは残念だと思う」と思っていたようだ。すると三郎がクララの気持ちを察したのか、「大久保さんは、アメリカが一番いい、イギリスより清潔で、何かにつけてずっと素晴らしい、と言われた。ロンドンはリージェント街以外はすべてひどい所だと言って、ご親切にも合衆国を弁護して下さった」とことに感謝している。このあたりの三郎の察しのよさは、なかなかではないだろうか。細かなことにも気がつき、フォローしたりする神経の細やかさをもっていたといえるだろう。クララは家達に餞別として送るためのココナツケーキをつくり、できあがったケーキは翌日、兄のウィリイが徳川家にもって行った。

 クララは自宅で知人の婦人やその子供たちに英語を教えていた。六月十二日、授業が終わるとクララは母アンナと横浜へ買い物に出かけている。ここでクララたちは竹村ともうひとりの随員をしたがえた家達を見かけた。でも、あわてて声をかけるのをはばかって、そのまま見送っている。本来なら昨日、イギリスに向かって出航しているはずなのだが、嵐のために船が出なかったのだ。
家に戻ると、兄ウィリイがサイン帳を見せにやってきた。このサイン帳は、ウィリイが六月九日に徳川家を訪れたとき、家達と随員たちの名前を書いてもらおうと思って置いてきたものだった。それを見てクララは、こんなことを書いている。
「私のサイン帳に大久保さんは丁寧な英字と漢字で「日本東京大久保三郎、Sabooro Ohkubo」と書いてあるのに、ウィリイのにはなぐり書きにしてカナで書いてあったので、わが兄貴はこの侮辱に憤慨している」
 やはり三郎はクララに少し気があったのかも知れない。誰でも年頃の娘にはサービス精神が豊富になるが、三郎は特別な感情をクララに抱いていたように思える。もっとも、それを告白したり実行したりできるほどの自由な感覚は持ち合わせていなかったということだろう。当時の日本人の、武士の家に生まれた青年の宿命だと思う。

 七月二十一日、三郎と滝村がホイットニー家に昼食に訪れ、昼食後、クララの両親とクララ、妹のアディを吹上御所に連れていった。これは事前に約束していたことなのだろうか。吹上御所に入るには手続きも必要だとは思うが、どのようなツテがあったのかは分からない。それはともかく、クララはその洗練されて手入れの行き届いた庭園にとても感激している。そして、三郎のことも、なかなか細かに観察している。
「大久保さんは新しい帽子をかぶっていた。黒いリボンのついた白い麦藁帽で、今年東京の若者の間に大流行している。非常に若々しく見え、とても十八歳より上だとは思えないが、そっと教えて下さったところによると、二十歳だそうだ」と、ここで初めてクララは三郎の年齢を知った。もしかしたら、自分と同じぐらいの歳だと思っていたのかも知れない。さらに、「大久保さんとアディと私は若いので、たいてい一緒に歩き、父と母と滝村さんは後からゆっくりとついて来た」というから、大久保が両手に花状態でクララ、アディと会話していたのだろう。

 次に三郎の名前が日記にでてくるのは、十二月二四日のクリスマスだ。家達の随員としてやってくる機会も減って、ずっとご無沙汰していたのだろう。 ホイットニー家では朝から飾り付けで大忙し。しかし、明治一〇年(一八七七)にクリスマスパーティを経験している日本人はほとんどおらず、「召使いたちは誰一人クリスマスツリーを見たことがなくて、どうするかまるでわからない」状態だったようだ。午前中は日本人の友だち(おそらく生徒だろう)から贈り物が次々と届けられ、英文の手紙も添えられていた。クリスマスには贈り物をする、ということはつたえてあったのか、三郎も夕方五時に訪問し、茶瓶と掛け物をプレゼントしている。まだパーティの準備前だったので三郎も手伝って箱やキャンディを並べていると、冨田、勝家や滝村家の面々がやってきた。三郎は来客の相手をしていたりしていたのだが、クララはぬかりなく三郎の様子を観察している。
「大久保さんはお客様のお相手をして下さったが、なんとなくお逸さんに一番関心がおありのようだった。お逸さんはきれいだし良い人だからそれも不思議はないが」
 このお逸さんというのは勝海舟の娘・逸子で、クララとは同年齢。クララの一番の仲好し友だちだった。女性ゆえの敏感さで、誰が誰を観察している、というようなことをしっかり見ている。三郎がお逸に気があったかどうかはさておき、まだ二〇歳の青年には、若い女性はみなまぶしい存在だったと思うのがだ。そのうち家達の弟などがやってきて御馳走となり、その後はいつもながらのゲーム。梶梅太郎(海舟の庶子)のはしゃいでいる様子もクララは日記に書き留めている。梅太郎はクララより四歳年下なので無理もないところだ。この日、三郎は、徳川家へも顔を出すからと早めに帰った。もちろんホイットニー家からの記念の贈り物ももらっている。

 翌明治十一年(一八七八)、三郎の名前がクララの日記に登場するのは二月二〇日のことである。クララはこの日、三郎宛に簡単な手紙を書いている。三郎の家の近くまで行ったので、何か連絡でもあったのだろうか。二十一日の日記には「明日はワシントンの誕生日を祝うことにして、大久保さん、田安さん、松平さん、勝さんの四人を招待」しようとしたが、クララには英語の授業があったし、三郎からも「土曜日の方が好都合といわれたので一日延期した」と書いているところを見ると、二〇日の手紙は招待状だったのかも知れない。
 さて二十三日の土曜日。松平おやお、すみが四時頃やってきて、その後に勝小鹿とお逸、それから三郎もやってきた。松平おやお(八百子)は出雲松江藩主松平定安の四女で、旧津山藩主松平確堂の養女。すみ、は八百子の世話人のような存在らしい。「大久保さんが、小鹿さんと同じように立派な洋服を着て来られた」と書いている。招待客たちは「いつものことながら、はじめのうちはぎこちなかったが、食事中にそれはなくなって、女性たちは落ち着いた控え目な様子で、男の方たちは元気よく話に花を咲かせられた。三郎さんは、馴れない日本人が初めて洋食を食べた時に、ナイフを楊枝代わりに使った話をして、みんなを笑わせておられた」という。こうした場でも、三郎は社交性を存分に発揮して、話題を提供している。武士の家庭に育ったからには口数が少なく、常に落ち着いて・・・というような先入観は、三郎にはまったく通用しないようだ。相変わらずこうした場を盛り上げることに徹している。パーティの方は、是までと同じように歌を歌ったりゲームをしたりである。


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