植物学者 大久保三郎の生涯
7 ウィリアム・ホイットニーの解雇
明治十一年(一八七八)五月二九日、ホイットニー家にとって大変な出来事がもちあがる。契約期間はまだ修了していないのに、商法講習所の改革のためという名目でウィリアムが突然解雇されてしまったのだ。講習所が東京府に移管された際、矢野二郎が校長となったのだが、クララは、父ウィリアムが矢野に嫌われていたと思っている。
「父は、我々の敵である矢野の仕業で、東京府から免職になったのだ。父は六月一日をもって、この学校を去らなければならない。故国へ帰っても、父は実業とは縁が完全に切れているし、年齢の関係で新しい職場を見つけることはできない。それのみならず帰国する旅費さえない」
クララの怒りはもっともだが、ここで少し商法講習所設立までの経緯を整理しておこう。
矢野二郎は元幕臣で幕府の通訳官で、維新後は外務省に入り、ワシントンで森有礼代理公使の下で働いていた人物だ。森の帰国後に代理公使となったが明治八年(一八七五)九月に帰国すると外務省を辞職。翌年、商法講習所の所長に就任した。講習所が東京府に移管した直後で、以後、講習所の予算は大幅に削減されていくことになる。それに対して矢野は私財をなげうって講習所の維持に当たったという。クララが言うように矢野がウィリアムを個人的に嫌っていたかどうかは分からないが、ウィリアムの給料が大きな負担になっていた可能性はある。なぜなら、ウィリアムを解雇した後、イギリス人のF・A・メヤーを新たに雇い入れているのだが、その給与は月給五〇円と日本人の助教と大差がないからだ。メヤーは開成学校の教師などを経て私塾を開いていた商業の実務経験者で、ウィリアムと比べて大きく劣るというようなこともない。ウィリアムがこの解雇に対して異議を唱えたりしている様子もないので、彼自身も他の外国人教師と比べて給与が高いことは自覚していたのではないだろうか。
一家は講習所に隣接した教師間に住んでいたが、ウィリアムの辞任に伴ってそこを立ち退かなくてはならなくなった。そこで七月、木挽町から永田町にある森有礼の持ち家に移り住んだのだが、そこは狭く、あまりきれいな家ではなかった。助け船をだしたのが、勝海舟である。海舟の赤坂の私邸内に家を一軒新築し、提供することになったのである。赤坂氷川町にあった勝邸は二五〇〇坪もあり、スペースはいくらでもあった。これも、海舟の塾生であり、ウィリアムの学校で学んだことのある冨田鉄之介とのつながりがあってこそだったろう。こうしてホイットニー家の人々は、明治十一年(一八七八)十二月から勝家の敷地の中に住むことになるのだが、三郎の名前が日記に登場するのはその少し前、同年の九月二十七日のことで、永田町に仮住まいのときのことである。この日は音楽会をすることになっていたようだ。
「大久保三郎氏がびっくりしたような顔をしておいでになった。家を見付けるのに一苦労なさったのだ。そのあとに小鹿さんがよそ行きの服装でやって来られた。容姿の端正な小鹿さんと並ぶと、大久保さんは見劣りがするが、社交では大久保さんが一番だ。彼は紳士的であるばかりでなく、まるで学生のように陽気である」とあるが、三郎は永田町の家に来るのは初めてだったようだ。また、「さん」から「氏」になっているのは、原文がどうなっているのか分からないが、二人の関係に少し距離が生じていることを思わせる。また、社交的と誉める一方で、容姿についていまいちであるという評価も下されているのも気にかかる。これまでのような手放しの賛辞がなされていないのは、クララから見て三郎の生活に何らかの変化があったのではないかと思わせる。
当日の音楽会では柴田と滝村が「ひちりき」を演奏したのだが、隣の部屋にいたクララ、アディ、お逸、三郎の四人には工場か機関車の汽笛のような騒音にしか聞こえなかったようだ。三郎が耳に手を当てて「助けてくれ。鼓膜が破れる」と言うと、一同は大笑い。三郎はまたしてもおどけて、「パラソルを持ってそれで演奏しているような真似をされた。頬をふくらませ、目を大きく開いて。お逸さんと私はおかしくてたまらなかった」「大久保さんはほんとうにおかしい方だ」とクララは、相変わらず三郎のひょうきんぶりを書き留めている。
食後にクララが演奏すると、みんなが客間に集まってきた。三郎はクララに「はにゅうの宿」を弾くよう注文をだし、三郎が歌ったというから、まだまだ息も合っているというべきか。その後も演奏がつづき、盛り上がっているなか、クララはお逸の動向をしっかりと観察している。クララによれば、お逸は「私(クララ)の椅子の背に寄りかかって私の指輪をほめ、色目を使っておられる大久保さんのほうにすっかり気をとられていた」ようだ。クララが三郎に対して少しばかり冷ややかだったのは、三郎がお逸に気があるように見えていたからだろうか。三郎はといえば、クララに愛想よくしたりお逸に色目を使ったり、女性の気を惹こうと一所懸命なのが微笑ましい。なんといっても、まだ二十歳そこそこの青年なのだから仕方のないことかも知れないが。
帰り際、クララは三郎にアルバムを託している。これはおそらくサイン帳で、クララは三郎の父・大久保一翁に何か書いてくれるよう頼んだと思われる。このアルバムは一〇月五日、クララの留守中に三郎がとどけている。
この後、すでに述べたようにホイットニー家は十二月に勝邸敷地内の屋敷に転居した。勝海舟は当時五十三歳。妻・民子との間に長女・夢、次女・孝子、長男・小鹿、次男・四郎がいたが、外に異腹の子供が五人いた。しかも、五人とも母親が違うのだから、一般に知られているよりも勝海舟もなかなかのやり手である。さて、その庶子の一人に梶梅太郎(梅太郎は母の姓を名乗っていた)がいて、ホイットニー家と大いに関わりを持つことになるのだが、その話は追いおいすることにしよう。
さて、商法講習所を首になったウィリアムは銀座の簿記学校(津田梅子の父・津田仙が経営)で教師となっていた。しかし、講習所の頃と較べると給料は半分以下。生活苦に陥ったホイットニー家では、長男のウィリスが医学の勉強を中断し、一年間、石川県加賀郡金沢町の学校(啓明学校)に教師として赴任することになり、明治十一年(一八七八)八月に家をでた。また、母・アンナやクララも仕事を探したりしていたようだ。
次に三郎の名がクララの日記に登場するのは、明治十三年(一八八〇)一月一七日のことで、音楽会からおよそ一年四ヵ月後のことである。三郎にはも大きな変化があって、クララは日記にこう書いている。
「お逸は田安公にお目にかかって来たところだったので、大久保三郎夫人が若くて美しく、どんな着物を着ていたかをこと細かに説明した」
なんと三郎はこの間に妻を娶っていたのである。明治十六年(一八八三)年に撮影されたとおぼしき写真が『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』に掲載されているのだが、そこには羽織袴の大久保三郎と妻、幼子が一緒に写っている。妻は大久保主水の娘・紀能(元治元年[一八六四]生)である。大久保主水(〜一六一七)はもともと三河武士で大久保一翁などと同じ大久保一族。古くから徳川家に仕えていたが三河一向一揆で負傷すると一線を退き、家康の江戸入国に先立って小石川水道を開発したりしている。また、後に禄を返上して御用達町人となり、江戸時代を通じて代々大久保主水を名乗って幕府の御用菓子司を務めた。維新による幕府瓦解の後は慶喜、家達について静岡に行くなど忠義も篤く、大久保一翁とも交流があったのだろう。結婚したのは三郎が二十二〜三歳、紀能(きの)は十五〜六歳頃と思われる。おそらく家同士が決めた結婚なのだろう。以後、『クララの日記』に三郎の名前は登場しない。はたしてクララと三郎が最後に会ったのはいつか、そして、どのような会話を交わしたのかは、定かではない。