植物学者 大久保三郎の生涯
8 三郎、内務省御用掛となる
クララの日記を読む限り、三郎は帰国しても相変わらず家達の随員をしていて、米国で学んだという植物学を活かした仕事などは、なにもしていないように見える。だがこの間、どうやら研究をつづけられる環境を探していたらしい形跡があり、それを思わせる記述が『勝海舟日記』の中に散見している。
明治十一年一〇月二日
溝口、三郎出身の事につき相談これあり、然るべしと云う。
明治十一年一〇月三日
溝口、大久保三郎へ、給金今通り遣わし候事決す。
明治十一年一〇月五日
大久保一翁、三郎、学術研究の事につき愚存相話す。且、学費の礼、申し聞く。
明治十一年一〇月八日
溝口へ行く。三郎、身上の事内談す。
溝口というのは溝口勝如のことで、陸軍奉行や勘定奉行を歴任した田安家の家老だった人物だ。家達の近侍だった三郎が政府に出仕するにあたり、生活費はこれまで通り徳川家が支給する、ということだろうか。親の七光りや米国帰りも功を奏したのかもしれないが、とにかく三郎は明治十一年(一八七八)一〇月に内務省御用掛となった。ただし「准判任志願に付不給其棒」という扱いで、無給である。判任官というのは官吏のなかでも最下等のクラスで、准がつくから、そのまた下の官吏見習いのようなもの。その立場で内務省勧業局の事務や新宿試験場掛、現業科植物昆虫両部を兼務し、明治十二年(一八七九)一月には熊本県出張所にも勤務したようだ。
新宿試験場というのは、明治政府が近代農業の振興を目的として設立した施設である。現在の新宿御苑の敷地がそれで、果樹や野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が行なわれた。明治七年(一八七四)に内務省の所管となり、教育施設として農事修学所も設置された。農事修学所はその後、農学校と名前を改称し、明治一〇年(一八七七)に駒場に移転。東京大学農学部となっていく。一方、新宿試験場で行なっていた業務は順次三田育種場に移され、残された新宿の敷地は宮内庁所管の新宿植物御苑として、明治十二年(一八七九)五月に開園している。当然ながら皇室のための庭園であり、一般に公開されるようになるのは第二次大戦後のことである。三郎は、まだ新宿試験場と呼ばれていたわずかな期間に、新宿試験場に勤めていたことになる。
こうして一年余りを過ぎた翌明治十二年(一八七九)十二月二十三日、三郎はやっと棒給五円の官吏となる。『勝海舟日記』の明治十二年(一八七九)十二月三〇日に「大久保一翁、悴の事相談」とあるのは、これに関連することなのかも知れない。その後、明治十三年(一八八〇)四月には給料も十五円に上がり、宮内省御用掛、植物御苑掛となった。これは、再び新宿での勤務に就いたということだろう。
また、三郎は明治十一年(一八七八)一〇月末に邸を構え、独立している。これは内務省御用掛になった頃のことで、妻を迎えたのもこの頃のことと思われる。このような状態なので、もはや気軽にホイットニー家を訪問したり、クララに会うことも少なくなっていったのだろう。クララの家で音楽会を開いたのが明治十一年(一八七八)九月なので、その直後に内務省御用掛となっていることになる。もしかしたらあれは、独身最後の弾けっぷりだったのかも知れない。
●新宿試験場について
新宿御苑のホームページ