植物学者 大久保三郎の生涯


9 念願かなって、東京大学御用掛に

 試験場や植物御苑で三郎がどんな仕事をしていたか定かではないが、学問というより育成の方に力が入っていたのではないだろうか。そんな三郎が、明治十四(一八八一)年九月二十九日、東京大学御用掛を命じられる。『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』によると「大久保三郎東京大学御用掛申付候事 理学部植物学教場助手兼小石川植物園植物取調方可相勤事」とあり、給料は月二十五円。さらに十一月には月三〇円に上がっている。
 この理学部植物学教場に君臨していたのは、『クララの日記』に登場し、クララからかなり顰蹙をかっていてたあの矢田部良吉教授である。明治九年(一九七六)六月に米国留学から帰朝し、翌明治一〇年に東京大学が設立されると植物学教授として就任。それまでの旧態依然たる本草学に依存することなく、最新知識による講義が行なわれるようになっていた。まさに、日本植物学の曙ともいうべき時代である。
『勝海舟日記』にも、三郎の東京大学御用掛就任と関連すると思われる記述がある。

 明治十四年七月二九日
 大久保一翁方。(中略)同三郎、進退の事等相談。
 明治十四年七月三一日
 大久保三郎、斎藤、申し聞け候身分替えの事、礼申し聞る。

 勝海舟の口利きで東京大学御用掛に転身できたので、三郎がその礼を述べにやってきたということだろうか。その後も、進退に関するやりとりがつづく。

 明治十四年九月十二日
 外山正一より、大久保三郎出身の事申し来る。
 明治十四年九月十四日
 外山より三郎掛合いいたし候間、山岡へ承合呉れべき旨申し越す。
 明治十四年九月十六日
 山岡へ、三郎入る事申し遣わす。外山正一へ同断。
 明治十四年九月十七日
 外山より三郎掛合い、山岡返事迄見合わせの事申し越す。
 明治十四年九月十八日
 山岡氏来訪。三郎身上、伊知地へ談じ候処、許可いたし候旨、直に外山へ申し遣わす。

 外山正一(一八四八〜一九〇〇)は旧幕臣で、十三歳のとき幕府直轄の洋学教育研究機関である蕃書調所に学び、文久三年(一八六三)に開成所(蕃書調所を改称)の教授手伝いになった人物だ。慶応二年(一八六六)には幕府留学生として渡英。維新後は静岡藩の静岡学問所で教えていたが新政府に抜擢されて外務省に勤務。明治三年に渡米するも、すぐに辞職してミシガン大学に入学。明治九年(一八七六)に帰国すると、翌年、日本人初の東京大学教授となっている。同じ静岡藩出身で同時期にミシガン大学に留学していのだから、当然、三郎とも面識があったろう。父親が大久保一翁なのだからそのツテも大きく影響したに違いない。外山は後に東京帝国大学文学部長、総長となるなど、影響力の大きな存在だった。また、明治二十二年(一八八九)には正則中学校を創立しており、教育者としても知られている。ちなみに、日記に登場する山岡とは山岡鉄舟(山岡鉄太郎)のことである。
 タイミングもよかったのだろう。三郎が東京大学御用掛を命じられたのは、ちょうど大学職制改定の時期に当たっており、お雇い外国人で動物学担当のホイットマンは満期解任。ホイットマンの代わりに帰朝したばかりの箕作佳吉が動物学の教授となっていた。生物学科の生徒も増えてきたので教授以外の職員の補充が必要となり、佐々木忠次郎と石川千代松が准助教授となっている。また、松村任三、飯島魁らも、大久保三郎とともに御用掛として新たに採用されている。このうち佐々木、石川、飯島は東京大学理学部生物学科の最初の卒業生(明治十四年)である。また、松村は開成学校(東京大学の前身)で法律を学んだ後、小石川植物園に勤務しながら矢田部教授に師事して植物学を修得した人物だが、このときまだ海外留学の経験はなかった。さらにこの後、明治十七年(一八八四)頃から牧野富太郎が植物学教場に出入りするようになり、植物分類学を学ぶことになる。まさに、東京大学植物学教場の揺籃期に、三郎は籍を置くことになった。大学は研究機関であり、三郎も落ち着いて仕事に打ち込めるようになったと思われる。


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