植物学者 大久保三郎の生涯


10 東京大学植物学教室の人々

 当時、植物学教室には矢田部良吉と伊藤圭介の、二人の教授がいた。伊藤圭介は専ら小石川植物園で植物調査を行なっていたが、それというのも伊藤は元蘭学者でシーボルトから旧来の本草学を学び、明治十四年(一八八一)に大学教授に任じられた人物だからだ。この時点ですでに七十八歳の高齢でもあり、新時代にあって学生に最新の学問を講義する立場ではなかったと思われる。
 一方の矢田部はアメリカ・コーネル大学で植物学を四年間学び、明治九年(一八七一)に帰朝して理学部教授となった気鋭の植物学者だった。専門教育は未だお雇い外国人が主流の中にあって、日本人として専門教育が教授できる数少ない人材として異彩を放っていた。また、矢田部は植物学者でありながら一方で詩人でもあり、詩の言文一致運動「新体詩運動」にも参加していた。
 その「新体詩運動」の仲間には東京帝国大学文学部長の外山正一がいた。三郎が東京大学に出仕するにあたり、勝海舟に問い合わせてきていたあの外山である。外山は漢字廃止論者で、ローマ字の採用を主張したことでも知られている。そもそもローマ字採用論の火付け役は西周(一八二九〜一八九七)で、外山も矢田部もその影響下にあった。外山らが明治十八年(一八八五)に矢田部良一らと羅馬字会を創立すると、会員は瞬く間に一〇〇〇人を突破。伊藤博文や井上薫などの高官や諸外国公使、学者や新聞記者など、明治二〇年(一八八七)頃には会員数七〇〇〇人を突破していた。東京大学教授の漢学者・内藤恥叟も、漢字は東洋だけのもので分かりにくく煩雑で、さらにカナは日本だけのものなので世界で広く使われている文字を使うことに賛成するなど、漢字廃止論は一種のブームとなっていた。漢字の代わりに何を使うかに関しては、ひらがな派、カタカナ派、ローマ字派、ハングル派などがそれぞれに自説を開陳していたようだ。東洋のものは時代遅れ、西洋のものが優れている、という時代だったのだろうが、日本語がいまもちゃんと漢字とひらがなで通用しているのは、もしかしたら奇跡的なことなのかも知れない。
 植物学教室にいた大久保三郎や松村任三も羅馬字会の会員だったようで、会への献金者名簿に名前を連ねている。本気でローマ字論を支持していたかどうかは定かではないが、三郎にとって外山は旧知であり、矢田部とともに大学では上司にあたるので、その影響もあったと思われる。それにしても当時の漢字廃止論・ローマ字礼賛には、想像以上のパワーがあったようだ。


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