植物学者 大久保三郎の生涯


11 三郎、日本植物学会の創設に奔走する

 明治一〇年(一八七七)頃、東京大学の法・理・文の三学部は東京・一ツ橋にあった。現在の共立女子大学の近くである。植物学教室は建物の一室だけで、これを二、三部屋に区切って使っていたという。教員と生徒を会わせても一〇人程度だったので、それで十分だったのだろう。明治十五、六年になると別棟の平屋に移り、実験室と教授室、講義室の三室を設けていた。狭い教授室には矢田部教授が。実験室の隅を仕切った教員室には松村・大久保三郎の二人の御用掛と画工数人の席があった。講義室では黒板・机を並べ、二、三人ずつ矢田部教授の講義を聴いていたという。講義はすべて英語で行なわれていた。
 当時、研究者たちの間には、目的を同じくする仲間同士で会を組織し、集団で進化していこうという動きが発生しつつあった。たとえば明治十二年(一八七九)には工学会が結成され、その機関誌である『工学叢誌』が明治十四年(一八八一)に刊行を始めている。同様に明治十五年(一八八二)には理学協会が創立し、翌年『理学協会雑誌』が発刊されている。
 こうした流れに刺戟されたのだろう。明治十四年(一八八一)の暮れ、御用掛の大久保三郎は新たに植物学会の創設を伊藤圭介、賀来飛霞の二人に謀った。賀来飛霞は本草学者として伊藤と交流があり、伊藤が明治一〇年(一八六七)に東京大学理学部の院外教授となった際に招かれ、小石川植物園の御用掛となっていた。この二人の長老格の了解を得ると、松村任三、沢田駒次郎、宮部金吾(学生)、岡田信利、賀来飛霞、大沼宏平、内山富次郎らが大久保宅に集まり、矢田部教授に会長に就任してもらうことに協議決定。その第一回会合は明治十五年(一八八二)二月二十五日、小石川植物園の事務室で開催された。その後も例会は開かれたが次第に出席者も減少し、「東京生物会」との合併話も出たほどだという。そこで明治十六年(一八八三)、会長の他に幹事二名をおくことにして、松村任三と大久保三郎が就任。さらに明治二〇(一八八七)年二月、学会の機関誌的性格を帯びた『植物学雑誌』が刊行される運びとなった。雑誌の主唱者は学生だった田中延次郎(明治二十一年修了)、染谷徳五郎(明治二〇年修了)と、植物学教室に出入りしていた牧野富太郎である。巻頭を飾ったのは大久保三郎の「本会略史」であった。そこには以上述べた植物学会成立の過程とともに、会の目的が述べられている。その冒頭部分を紹介しよう。
「凡そ新に事物を発明したる者は必之を世に公にし 衆人をして普(あまね)く之を知り 益(ますます)其薀奥を極めしむることを勉めざるべからず。縦令(たとえ)如何なる発明を為すとも深く之を秘して衆に公示せず 他人の同一の事を発明するに及んで 我曾(かつ)て之を発明せり 我已(すで)に之を知れりと言ふと雖も 人誰か之を信ぜんや。斯くの如きは啻(ただ)に人に益すること能はざるのみならず 自損して其功を放棄するものと謂ふべきなり。植物学に於ても亦之に同じ故に 此学に志す者にして植物に関し苟(いやしく)も発明する所の者あらば其細大を問はず之を同志者に公示し 又其中疑団を免れざるものあらば 亦同志者に質して其解説を求め 互に知識を交換し 此学の進歩を謀るを緊要とす・・・(略)」
 研究者たちが自分の意見を堂々と延べ、意見を交わし、知識を得るためのメディアが、いよいよ誕生した瞬間であった。


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