植物学者 大久保三郎の生涯


12 東京大学助教授に昇格

 明治十五年(一八八二)四月十六日、東京・不忍の生池院で教授・伊藤圭介の八〇歳、長寿を祝う会が催された。生池院は不忍池に浮かぶ弁天堂のことで、伊藤が嗜み愛する動植物、鉱物などが陳列された。陳列品については圭介の孫・伊藤篤太郎が編輯した『錦■翁耋筵誌』に掲載されているが、三郎も賀来飛霞、沼田荷舟、栗田万次郎、宍戸昌、栗本鋤雲、練木喜三、伊藤篤太郎らとともに寄稿している。
 賀来飛霞は本草学者から小石川植物園の御用掛になった人物。沼田荷舟は絵師。栗田万次郎も本草学者。栗本鋤雲は奥医師や外国奉行などを務めた幕臣で維新後はジャーナリスト。練木喜三は、農商務省の役人。まともに洋学を学んだのは伊藤篤太郎と大久保三郎だけなのだが、篤太郎は圭介の孫なのでおくとして、三郎だけが浮いている。まだ植物学教室にやってきて半年余りなので、とりあえず挨拶気分で寄稿したのか、それとも生来の陽気さで誰とでも分け隔てなくつきあう心づもりだったのか。矢田部教授や、三郎と同じ御用掛の松村任三と石川千代松が寄稿していないのに、なぜ三郎だけが、という気がする。
 すでに学内の派閥などもあったのかも知れないが、それは想像の域をでない。しかし、アメリカで植物学を学びながら、本草学者の伊藤圭介のためにも労を惜しまない三郎の様子は、その性格を表しているようでもある。頼まれれば嫌といわず、とくに主張もせず、あるときは流される。リーダーシップや成果が求められる大学の中で、ひょうひょうと生きていく三郎の生き方は、熾烈な競争社会の中で浮いた存在だったかも知れない。

 御用掛だった大久保三郎は明治十五年(一八八二)二月、理学部植物学教場補助となった。小石川植物園植物取調方の兼務は従来通りである。植物学教場では、三郎は植物学実験の助手などを行なっていたようだ。『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』によれば「実験は主として顕花植物の形態乃至花の解剖の如きものにして顕微鏡実験或は生理学実験の如きは稀に行なわれしが如し」というから、植物を解剖してその構造を肉眼で見ることが多く、顕微鏡による観察はめったに行なわれていなかったようだ。しかも矢田部教授が多忙なため「実験指導は寧ろ学生の自由研究に委ねしという」というような具合だったというから、学生たちが思い思いに実験をしていたようだ。三郎は、そうしたなかで学生にアドバイスでもしていたのだろうか。明治十四年〜一八年頃まで植物学教室の学生として在籍していた宮部金吾が、この当時のことを次のように書いている。
「別館の実験室はその一部を仕切りて二つ(或は一つなりしか)の室を作り、その中の一番奥に矢田部教授、次に松村、大久保両氏在り。実験室には画工、箕作、斎田氏等と共に小生机を並べ、その他小使も居りて?葉の製作等をなせり。又室の中央には机あり、其上にて食事をなし、其際には松村、大久保氏等も一緒なり」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「一ツ橋時代」宮部金吾)
 この時代、植物学教場の大きな役割は、植物標本の充実化にあった。なぜなら当時の日本には植物標本が極めて少なく、標本がそろっていなければ新種の同定すらできないからだ。それで?葉、すなわち押し花なども製作していたのだろう。一日でも早く多くの植物を収集することが緊急の課題で、矢田部や三郎は時間があると学生を引き連れて標本採集にでかけていた。
 翌明治十六年、三郎は植物標本の充実のため東京府下戸田ノ原(正確にはどの辺りかは分からない)や伊豆の天城山、大室山、長者ヶ原などへ出かけている。さらに、六週間かけて紀伊、和歌山、伊勢方面へも植物標本採集に出かけるなど、精力的な活動を行なっている。こうした活動が認められてか明治十六年(一八八三)十二月、三郎は御用掛だった松村任三(植物学)、準助教授だった石川千代松(動物学)らとともに東京大学助教授に昇格。年俸四八〇円という身分になった。
 助教授になっても山歩きの回数が減ることはなかった。明治十七年(一八八四)三月には動物学教授の箕作佳吉、同助教授の石川千代松、植物学助教授の松村任三、および、助手、学生らと駿河国駿東郡江の浦へ足を運んでいるし、その後も神奈川などへと植物採集に出かけている。現在と比べて交通機関も発達していないので馬車や人力車などを使ったのだろうが、山歩きは徒歩に頼るしか手立てはない。満足な宿泊施設も期待できないなかでの植物採集は、今日から比べると相当なハードワークだったことが想像できる。


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