植物学者 大久保三郎の生涯
14 破門草事件の目撃者として
牧野富太郎(一八六二〜一九五七)が東京大学理学部植物学教室に出入りするようになったのは明治十七年(一八八四)頃のことである。当時は教授が矢田部で、松村と大久保三郎、石川千代松が助教授に昇格したての頃だった。『牧野富太郎自叙伝』で牧野は、「植物学教室には、松村任三・矢田部良吉・大久保三郎・の三人の先生が居た。この先生等は四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出て来たというわけで、非常に私を歓迎して呉れた」「私には教室の本を見てもよい、植物の標本も見てよろしいというわけで(中略)暇があると植物学教室に行き、お蔭で大分知識を得た」と当時の植物学教室の様子を描いている。
また、人的交流についても「当時、三好学・岡村金太郎・池野成一郎・等は未だ学生だったが、私は彼等とは親しく交際した。私は教室の先生達とも親しく行き来し、松村任三・石川千代松さんなどは、私の下宿を訪ねてくれたし、私も松村・大久保・両氏と共に矢田部さんの自宅に招かれて御馳走に預かったこともあった」と書いている。
しかし、植物学教室の面々がつねに和気藹々と云うわけではなかった。新種の植物に学名を付ける件で矢田部教授と、教室に出入りしていた伊藤篤太郎(理学部教授伊藤圭介の孫)との間に確執が発生。結果的に伊藤の植物学教室への出入りが禁じられるという事件が発生した。植物学の世界で、いわゆる「破門草事件」として知られる出来事である。
トガクシソウは日本固有の植物で、一属一種。長野や新潟の雪深い山中に見られる珍しい植物で、現在では絶滅危惧種にも指定されている。
矢田部が最初にこの植物を発見したのは、明治十七年(一八八四)、戸隠でのこと。持ち帰って小石川植物園に植えたところ、翌々年の明治十九年(一八八六)に開花した。矢田部は新種の可能性が高いと判断し、明治二〇年(一八八七)七月に、これをロシアの植物学者マキシモヴィッツに送り、鑑定を仰いだ。
東京大学に植物学教室が開設されたとはいえ、日本にはまだ文献も標本も少なく、新種を発見してもそれを鑑定する素地がなかった。そこで日本の植物学者たちはロシアの植物学者マキシモヴィッチに標本を送り、鑑定してもらのが習いだった。彼は幕末期の日本に訪れたこともあり、日本の植物を採集してその成果をたびたび論文で発表していた。当時の日本人は新種命名に対する知識も乏しく、日本の本草学者が発見した新種の植物もこうした外国人の手によって命名されるのが常だった。しかし、アメリカ帰りの矢田部は旧来の本草学者とは考え方が明らかに異なっていた。なんとしても「日本人の手で命名を」という意気込みに燃えていたのである。そうはいっても、まだ外国人に頼らねばならない状態がつづいているのは事実であり、歯がゆかったに違いない。
明治二十一年(一八八八)三月、マキシモヴィッチから返事がきた。新属と考えられるので「発見者に献名してYatabea japonica Maxim.と呼びたいが、正式な発表前に花を調べなくてはならないので、花の標本を送って欲しい」(『初めて植物に学名を与えた日本人 伊藤篤太郎』)と言ってきた。この頃になると命名の横取りはなく、新属名の最後に「Maxim」とあるように、マキシモヴィッチが代理で発表するという手筈だったようだ。
発見した植物に自分の名前がつく。これは、日本の植物学界初の栄誉である。矢田部は嬉しさからか、マキシモヴィッチからの手紙を同僚である助教授・大久保三郎に見せた、と牧野富三郎は『牧野富太郎自叙伝』に書いている。さらに、「この手紙のことを或時、教室の大久保さんが、その頃よく教室にきた伊藤篤太郎君に話した」(『牧野富太郎自叙伝』)という。
伊藤篤太郎というのは、本草学者で植物学教室の教授でもあった伊藤圭介(明治十九年に東大を非職)の孫である。私費で英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後は研究者として植物学教室に出入りするようになっていた。篤太郎は、矢田部の新属命名話を知って慌てた。なぜなら、矢田部がマキシモヴィッツに鑑定を依頼した植物は、矢田部が採集する九年前の明治八年(一八七五)に、篤太郎の叔父の伊藤謙が発見したものと同じものだったからだ。しかも、篤太郎は明治十六年(一八八三)、マキシモヴィッツにその標本および新種の提案名を送っていて、それに基づいてマキシモヴィッツが明治十九年(一八八六)、Podophyllum japonicum Ito ex Maxim.の新種名で論文を発表していたのである(ex Maxim.は、マキシモヴィッツが代理で発表の意)。つまり、日本人の手による新種の命名は、伊藤篤太郎によって既に行なわれていたのだが、矢田部はそのことに気付いていなかった可能性が高い。また、和名についても祖父の伊藤圭介と相談して「トガクシソウ」と名付けていた。そこに、矢田部の名前のついた新属名の命名話である。篤太郎はこれを見逃すことができなかった。
『牧野富太郎自叙伝』によると、「大久保さんは、伊藤の性質をよく知っているので、この手紙を見せるが、お前が先に名を付けたりしないという約束をした。所がその後三ヶ月程経ってイギリスの植物雑誌のジャーナル・オブ・ボタニイ誌上(一八八八年の一〇月号)に同じ植物に関し伊藤が報告文を載せ、『とがくししょうま』にランザニア・ジャポニカなる学名を付して公表していた」のである。新種名につづいて新属名も、篤太郎が日本人として初めて命名したということになる。その学名は江戸時代の本草学者小野蘭山にちなんだもので、メギ科の新属Ranzania japonica (T. Ito) T. Itoである。矢田部は篤太郎の新属名発表の後、マキシモヴィッツ経由で自分の名の付いた新属名を発表したが、先取権によってそれは認められることはなかった。
この抜け駆け的な篤太郎の行為を知って「矢田部・大久保両氏は大変怒り、伊藤篤太郎に対し教室出入を禁じてしまった」という。ただし、「道義上よろしくなかったが、同情すべき点もあったと思う。『とがくししょうま』は矢田部氏が採集する前に、既に伊藤がこの植物を知っていて、ポドフィルム・ジャポニカなる名前を付し、それがロシアの雑誌に出ていた。だから彼にして見れば自分が研究した植物に『ヤタアベ』などと名をつけられては面白くなかったのだろうと思う」と、『自叙伝』で篤太郎に同情している。
こうして伊藤篤太郎は、日本人として初め植物に学名をつけた人物として記録に残ることになったのだが、面目丸つぶれなのが矢田部良吉である。腹の虫が治まらない矢田部は、伊藤篤太郎に植物学教室の出入りを禁止する。これが「とがくしそう」が「破門草」と呼ばれるようになった経緯であるといわれている。ただし矢田部が提唱した和名「とがくししょうま」の方は定着し、現在も「トガクシソウ」とともに使われつづけているという。
しかし、疑問も残る。マキシモヴィッツは、矢田部から送られてきた植物が、既に自分が鑑定したことのある植物であることに気づかなかったのだろうか。それともそれは承知の上で、篤太郎が発見した新種に矢田部の属名をつけようとしたのか。また、篤太郎が日本人として新種名を命名していた事実は、日本の研究者に伝わっていなかったのだろうか。矢田部や大久保は、そうした情報をまったく知らなかったのだろうか。篤太郎の祖父は伊藤圭介で、東大に奉職していたのである。ほとんど小石川植物園に出仕していて植物学教室には顔を出すことは少なかったといっても、三郎は植物園の仕事もしていた。ならば、知らないということはないような気がするのだが・・・。
いずれにしても、この事件に関する証言は、牧野富太郎のものに限られていて、当事者である矢田部も伊藤篤太郎も多くを語っていない。もちろん、経緯を最も知っているであろう三郎は、なにも語ってはいない。牧野の『自叙伝』だけで判断するのは、いささか危険なような気もするのではあるが。