植物学者 大久保三郎の生涯
15 牧野富太郎と矢田部良吉の確執
牧野富太郎が伊藤篤太郎の行為を弁護するような文章を書いているのには、別の理由もあるようだ。それは、牧野と矢田部の確執である。
それまで日本には、日本の植物を体系的・分類学的にまとめあげた植物誌は存在しなかった。外国にはあって日本にはないこの手の植物誌を自分の手で出版したい、というのが牧野の願望だった。それが、東京大学の植物学研究室に出入りし、標本を参照できるようになって、現実味を帯びてきたのである。しかし、そんなものを手がけようという出版社はなかった。そこで牧野は自らの手で文章と図版を描き、自費出版というかたちで『日本植物志』を出版し始めたのである。明治二十一年(一八八八)、牧野二十六歳のことである。
しかし、矢田部教授も牧野の後を追うように同様の植物志を出版することを考え、ついては自分の本の出版が完了するまでの間、教室の書物や標本を見せない、と牧野に宣言したのである。牧野の『日本植物志』は続刊の予定があったのだが、植物学教室での研究は不可能となった。それで、駒場の農家大学の資料を使いながら研究をつづけ、『日本植物志』は全部ではないが六巻まで刊行することができたという。(『牧野富太郎自叙伝』)
もちろん矢田部を擁護する見解もある。というのも矢田部が東京大学教授になった明治一〇年(一八七七)頃、日本にはまともな植物標本が存在せず、採集した植物を外国の植物学者が命名した分類群に同定することは困難だった。それで始めのうちは標本を外国の学者に送り、鑑定してもうのが常だったということは既に述べた。
欧米の学者に頼らず、日本人の手で学名を与え発表するためには、植物分類学のベースとなる植物標本が必須だった。そんなことから矢田部は植物標本室の必要性を痛感し、その充実に全精力をあげて取り組んできたのである。矢田部は明治二十一年(一八八八)までの期間に、日光や江ノ島、秩父、小笠原、信州、富士、霧島、箱根、羽前・羽後、四国などへ採集旅行に赴いている。もちろん、まだ鉄道も十分に敷設されていない時代の旅行である。これに同行したのは、松村任三、大久保三郎の教師の他、学生だった三好学、内山富次郎らで、足を使って着々と標本を充実させていった。
「植物学教室の重要な仕事は日本各地に植物採集して標本をつくり、教室の〓葉庫を充実することである。矢田部教授及び松村、大久保両教授はいそがしい公務のなかに日本各地を採集してまわった。植物学科の初期の学生たち、斎田功太郎、白井光太郎、三好学も卒業論文のテーマとは関係なく日本各地を熱心に植物採集して歩いた」(『白井光太郎伝』木村陽二郎)
それを、たまたま植物学教室に出入りを許されたからといって、植物学教室の面々が苦労して集めた成果だけを横取りするような真似は誉められたものではない、というものだ。
一方、東大名誉教授で植物学者の木村陽二郎(一九一二-二〇〇六)は『白井光太郎伝』のなかで「明治二十一年牧野は『日本植物志図篇』を自費出版しはじめた。松村、大久保はこの立派な図集の出版を喜び、「植物学雑誌」で絶賛の言葉を記した」と書いている。『日本植物志図篇』によって牧野は矢田部から植物学教室への出入りを禁止されるのだが、その『日本植物志図篇』を松村、大久保三郎が絶賛しているとなると、矢田部と松村、大久保との関係が気になるところだ。なぜなら、「トガクシソウ」の一件での対応から、三郎を矢田部派と見なす見解もあるし、そうでない解釈もある。そもそも事件について牧野富太郎しか記録に残していないことが原因なのだが、はたして実際はどうだったのか。その実際を教えてくれる文献は残念ながら見つかっていない。