植物学者 大久保三郎の生涯
16 同僚の飯島魁が、先に教授に昇進
話を戻そう。明治十八年(一八八五)夏、理学部は本郷本富士町に移転。植物学教場も一ツ橋から本郷へと移転した。また、後に理学部教授となる三好学が入学したのは、この年の九月である。
明治十九年(一八八六)、組織変革によって東京大学理学部は帝国大学理科大学と改称する。これによって三郎の身分は、理科大学助手となる(三月)。すでに助教授になっているのに助手に戻ったのはどういうわけか分からないが、同年一〇月、三郎は理科大学助教授となり、任官六等になる。それはいいのだが、この時、それまで講師だった飯島魁が三郎を飛び越して教授に昇進している。前にも述べたが飯島は明治十四年(一八八一)の卒業生で、三郎と同時に御用掛に採用された人物だ。明治十五年(一八八二)には御用掛を解かれ、ドイツのライプツィッヒ大学に留学し、帰国後、一気に教授になった。海外留学することで新知識を入手し、それによって評価が得られた時代だったのかも知れないが、三郎にとってみれば同輩に追い越されたわけで、複雑な心境ではなかったろうか。かといって三郎は、自らも再度の留学を目ざすということもない。開成学校や東京大学を卒業しての留学組と、静岡学問所からの私費留学では扱いが違っていたのだろうか。それとも、三郎自身にそれほどの欲がなかったということなのだろうか。
それはさておき、明治二十三年(一八九〇)、矢田部良吉は『植物学雑誌』に「今後日本植物の研究は日本人の手で行う」と高らかに宣言する文章を発表した。採集した植物を外国人に鑑定してもらわなければならなかった時代への決別であり、植物標本の充実化が着々と進行しつつあることの自負もあったろう。
しかし先に書いたように、明治十九年(一八八六)、マキシモヴィッチ経由ながら伊藤篤太郎によって「トガクシソウ」の学名(新種)はロシアの雑誌に発表されていた。そして、新属名も明治二十一年(一八八八)に篤太郎によって行なわれていた。矢田部が、篤太郎の新種命名を知らなかったのかどうかは、分からない。しかし、新属名については篤太郎に先を越されたのを了解しながらも後追いで発表するなど、自分に優先権があると信じ込んでいたらしい気配もある。そのことは、谷中霊園にある矢田部の墓石に、戸隠山で発見した植物に「未曾有之新種命名」と刻み込まれている事実からも推測できる。もちろん矢田部自身が書いたものではないだろうが、矢田部自身がそう信じ込もうとしていたであろうことは見て取れる。そんな矢田部が「日本植物の研究は日本人の手で」と宣言するのはいささか不自然な気もするが、それは、矢田部の執念が言わせたことなのかも知れない。ただ、日本人による最初の命名話がでるたびに矢田部が引用されることになるのは、いささか気の毒な気もするのではあるが。