植物学者 大久保三郎の生涯


17 三郎が命名した植物名の数々

●Theligonum japonicum Okubo et Makino ヤマトグサ(標準名) (『植物学雑誌』一八八九)
 日本人が日本の雑誌(『植物学雑誌』)に新種の植物の名を発表した最初、として引き合いに出されるのが「大和草(ヤマトグサ)」である。この植物は高知県佐川の北西、名野川で発見されたもので、命名者は牧野富太郎と大久保三郎。明治二十二年(一八八九)のことである。
 牧野の知名度が高いせいか植物学に関する書物などでは伊藤篤太郎による外国雑誌への投稿よりも大きく扱われることが多いが、マキシモヴィッチの手を借りているとはいえ、日本人が最初に植物に学名をつけたのは篤太郎の業績に間違いなく、学術的評価は篤太郎の方が高いと思われる。しかし、これが日本の植物学に対する認知度であると解釈することもできるだろう。なお、ヤマトグサには次のような別の学名もある。
・Cynocrambe japonica (okubo & Makino ) Makino ヤマトグサ(別名) (一八九四『植物学雑誌』)
 牧野富太郎『植物分類研究』所収の「我日本ニ於テ学会ニ興味ヲ与ヘシ植物発見ノ略史」(初出は『植物研究雑誌』第五巻二号・昭和三年二月発行)で、牧野はヤマトグサ命名の経緯を次のように説明している。
「明治十七年ニ私ハ始メテやまとぐさ(私ノ下シタ和名)ヲ土佐デ採ッタ 其翌々年渡辺壮兵衛(後チ協ト改名)君ガ花ノ標本ヲ送ッテ呉レタノデ始メテ能ク其植物ノ研究ガデキタ、私ハ始メ大学植物学教室ノ大久保三郎君ト其学名ヲTheligonum japonicum Okubo ET Makino.トシテ発表シタガ後チ其レヲCynocrambe japonica Makino.ト改メタ、此珍草ノ発見ニヨッテ始メテ我日本ニやまとぐさ科(Cynocrambacene)ヲ見ルニ至ッタ」
 自分が発見した標本は完全ではなく、同じ物を知人が送ってきたので、それで研究ができた。それで学名を大久保三郎と一緒につけて発表したが、後に改めたというのである。最初につけた学名には「Okubo」がついているが、それを取り払ったわけである。もちろん、牧野が過去に、最初に発見していたのが事実なら、他人の名前を新種の植物につけられるのは腹立たしいことだろう。しかし、ではなぜ牧野は最初に「Okubo」の名を学名に冠したのだろう。命名当時は東大の先生に遠慮して、形式的に「Okubo」を付したのだろうか。牧野の性格を考えると、そのようなことをしそうにもないように思えるのだが。
 三郎という人物を見ていると、すでに牧野が発見していた植物の学名に、自分の名前を加えろ、と強要するような人間にはどうしても思えないのだ。もしかして、牧野は二年前に同じ物を見つけていたことを三郎に告げていなかったのではないだろうか。渡辺壮兵衛が採集標本を、三郎と牧野とで確定したと信じたから、三郎は「Okubo ET Makino」という命名に異議を唱えなかったのではないだろうか。そして、牧野はそれを後になって、同じ物をすでに発見していた、という理由で学名を変更した・・・。もしこの想像が事実なら、確定作業中に、自分がすでに発見していたということを三郎に告げるべきだったろう。牧野が名称を変更したのがいつのことなのかはっきりしないのだが、彼のすることは後出しじゃんけんのようにも思える。すなわち、「あれは、自分がむかし発見していた」と、三郎が亡くなった後に自分の都合のいいように記録を訂正しているように見えるのだ。そもそも、新種であることを確定できない標本を二年前に発見していたからといって、それが最初の発見者であると認定できるものなのだろうか。新種であるということを確定できた時点で、新発見が認定されるのではなかろうか。しかも、「二年前に発見していた」と証言しているのは他ならぬ牧野富太郎本人で、その申告を信じる他に手立てはない。植物名の決定に関するルールについては知識がないのだが、牧野はよほど手柄を独占したかったのではないかと疑りたくなる。とまあこれは、大久保三郎にひいき目の解釈であるといわけけば、そうなのだけれど。

●Bulbophyllum drymoglossum Maxim. ex Okubo マメヅタラン (『植物学雑誌』一八八七)
 明治十五年(一八八二)六月に大久保三郎が房州清澄山で発見。鑑定依頼によってマキシモヴィッチが命名し、それを三郎が『植物学雑誌』に発表した。
 伊藤篤太郎がトガクシソウの鑑定をマキシモヴィッチに依頼したのが明治十六年(一八八三)で、マキシモヴィッチがロシアの雑誌に発表したのが明治十九年(一八八六)。これが日本人による新種命名の最初であることは先に書いた。しかし、それ以前にも同様のことは行なわれていたのである。そこにあるのは、篤太郎が自分が命名した名前を提案していて、マキシモヴィッチがその提案名に沿った命名を行なった、という違いである。もし三郎が鑑定の際に提案名を添えていれば、その学名がマメヅタランに付いた可能性はある。マメヅタランが新種であるとの確信が、三郎にはあったと思う。しかし、新種命名の重要性や、提案名を付与して鑑定を依頼するだけの積極性や知識がなかった、ということだろう。それに対して篤太郎は英国留学の経験から、新種命名権について知識を得ていた。最新の知識をもち、研究者としての名誉欲や先見性などに勝った篤太郎が「日本人初」の勲章を手に入れたのも当然だろう。しかも、篤太郎のトガクシソウは本人が発見したのではなく、叔父が見つけたものだ。一方のマメヅタランは三郎自身の発見である。日本の植物学が成熟する過程のわずかな時間の違いによって、栄誉は伊藤篤太郎に輝いた。まさに、タイミングとしかいいようがないように思う。
 この時期、矢田部も、牧野・大久保の「ヤマトグサ」につづくように「キレンゲショウマ」を『植物学雑誌』(一八九〇)に発表。大学院生だった三好学も「コウシンソウ」を同じく『植物学雑誌』(一八九〇)に発表している。このように、外国人の手を介することなく、日本人の手による命名は続々と行なわれるようになっていく。

●Micropolypodium okuboi (Yatabe) Hayata(『植物学雑誌』一八九一)
 三郎が発見したのではないが、三郎の名前にちなむ名もある。「オオクボシダ」である。
 最初の発見は明治一〇年(一八七七)のことで、東京博物局員の五人が紀州で発見。苔に埋もれて生育していたので、コケシダなどの名前をつけていた。しかし、国際命名規約ではラテン語を添えなければ正式発表とはみなされず、裸名、すなわち学名としての適格性を持たないので、先取権の原則も適用されないという。それでその後、大久保三郎が箱根で採集した標本をもとに、矢田部教授が学名を付与し、正式に発表した。同時に「オオクボシダ」が標準和名として用いられるようになった。東京博物局員の五人の名前は分かっているのだが、誰と特定できなかったのでそうしたという説もある。理由は詳しく分からないが、学名の命名にも様々な側面がある、と思い知らされるエピソードではある。
 牧野富太郎は『植物随筆集』の「断枝片葉(其十七)「おほくぼしだハ其前ニ既ニ数名ガアル」(大正一五年五月発行の『植物研究雑誌』に掲載)で次のように書いている。
「おほくぼしだハ前ニ東京帝国大学理科大学ノ助教授(植物学教室勤務)ノ大久保三郎君(今ハ疾ク既ニ故人トナッタ)ヲ記念スル為ニ矢田部良吉博士ノ命名シタモノデアルガ 是ヨリ先キ博物局デハ此小羊歯ヲ始テ紀州デ採リ之レニこけしだ、一名なんきんこしだ、一名ひめこしだ、一名むかでしだ、一名えうらくしだノ和名ヲ命ジテ居ッタ 其レガおほくぼしだ命名ニ先ダツコト約ソ十年程前ノコトデアル 即チ『勢紀植物図説』稿本ニ記スル所デ之レニ伴フタル文章ハ「紀州牟婁郡大雲取ヲ過ギ口色川村ヨリ山路ニ至リ僅ニ両三根ヲ得タリ羊歯ノ小草ニシテ全形エウラクゴケニ似テ葉背数点ノ花実ヲ着ク 今回発検ノ一ニシテ珍草ト賞スベキ者ナリ」デアルソシテ此採集者ノ一行ハ博物局員ノ小野職慇、田中房種、田安安定、中島仰山、織田信徳等ノ数名デアッタ」

●ツチトリモチの発見と命名
 牧野と三郎の攻防(?)がうかがえる話もある。牧野富太郎『植物分類研究』の「我日本ニ於テ学会ニ興味ヲ与ヘシ植物発見ノ略史」(昭和三年二月発行『植物学雑誌』に発表したもの)の中に、次の記述がある。
「明治十六年(今カラ四十五年前)デアッタ、時の東京大学ノ御用掛大久保三郎君(植物学教室勤務、後チ助教授トナッタ、大正三年五月二十三年逝去)ガ伊豆ノ天城山デ一の珍ラシイ寄生植物ヲ見付ケタ 然シ其レハ極嫩イ者ダッタノデ其種属ハ能ク判ラナイガ 此レハCytinaceae一名Rafflesiaceaeノ科ニ属スルモノデアルコト蓋シ疑ヲ容レズト大久保君ハサウ言ッタ、乃チ其彩色写生画ト記事トヲ当時大学デ発行シツツヽアッタ『学芸志林』第七十七冊ニ掲載シタ(次頁ノ写真参照)然シ其レハ疑モナクつちとりもち属ノ一種(多分みやまつちとりもち)デアッテ決シテラフレシア科ノ者デハナカッタ 其前後頃ニ私ガ土佐デ採ッタつちとりもちノ標本ヲ大学ヘ送ッタ 即チ是レガ同大学デ完全ナ同植物ノ標本ヲ得タ始メデアル、又其レノ写生図ヲ東京博物館ニ送ッタ、後ニ私ハ此つちとりもちニBalanophora japonica MAKINO.ノ新学名ヲ下シタ、此ク此植物ガ学問上判然スルニ従ッテ我ガ日本ニ始メテつちとりもち科(Balanophoraceae)ガ確定セラレタ、尤モ此属ノ植物ハ徳川時代ニ既ニ知ラレテハ居タガ 其学問上ノ研究ハ丸デ出来テ居ナカッタ・・・」
 三郎が伊豆で珍しい植物を発見した。三郎はCytinaceaeだと判断して雑誌に発表した。牧野はそれを、ツチトリモチだと判断。同時期に土佐で採集した同種の標本を東京に送らせ、自分の名前を冠した学名を命名したというのである。では、それが牧野の新発見かというとそうではなく、その植物は江戸時代から知られていて、たまたま研究されていなかっただけだ、という。三郎が見つけた植物がツチトリモチだったとして、ではそのとき牧野は三郎にそう助言しなかったのだろうか。そして、「これは江戸時代から知られていますよ」と一緒に研究・同定作業に入れば、共同で名づけることができるはずである。にもかかわらず、そうはしていない。むしろ、「大久保さんは間違えて発表している」と冷ややかに眺め、あとから「実は・・・」と切り出しているように見えてくる。
大久保三郎の性格からして、人の意見を聞かないというようには思えないのだが。

 命名ではないが、ホンゴウソウにまつわる三郎と牧野富太郎とのエピソードが「小石川植物園ニュースレター」第三十四号所収の『植物園所蔵の植物画から発見されたスズフリホンゴウソウのスケッチ』(邑田仁)に載っている。
 東京大学総合研究博物館には理学部植物学教室の頃の押し葉標本が残っており、その中のある標本のラベルに「July 7,1884.新ヘゴ□根ニ生ス」と書いてあるという。この標本は最初、三郎によってヒナノシャクジョウ科のAptera setacea と同定されたようだ。しかし、そのラベルには牧野の筆跡で「(determ. S.Okubo) Sciaphila ? sp. (T. Makino)」と追記されており、牧野はホンゴウソウ属の一種ではないか、と考えていることを表しているのだという。邑田は「厳密には同定できない」としつつも「スズフリホンゴウソウの可能性が高い」としており、この勝負は牧野に軍配が上がっているようだ。勝負の行方はさておき、このような標本およびラベルなどはまだまだ残されているはずで、三郎自筆のものも少なくないはずである。  さて、この標本ラベルが書かれたのは明治十七年(一八八四)であるから三郎は助教授になりたてで、ちょうど牧野も植物学教室に出入りするようになった頃でもある。ということは、牧野は三郎が同定した後から、ラベルに自分の考えをちょこちょことメモしていた、ということなのだろうか。あるいは矢田部良吉が植物学教室を去って牧野の植物学教室への出入り禁止が解け、松村任三に呼び戻された明治二十四(一八八一)以後のことなのか。はたまた、三郎が植物学教室を追われた後の仕業なのだろうか。その詳細は分からないけれど、三郎に直接言っていないだろうことは想像がつく。

 その他、三郎の名のついた植物はいくつかある。
・カタシオグサ Cladophora ohkuboana Holmes
カタシオグサの属名はギリシア語に、種小名は大久保三郎に由来するといわれている。ただし、命名者はホームズとなっている。
・オオヒメワラビ Deparia okuboana (Makino) M.Kato (一八九九)
オオヒメワラビも発見者の大久保三郎に由来するが、カッコに入っている牧野が原命名者で、M. 加藤が命名者ということらしいのだが、発見の詳細や命名に至る経緯についてはまだ調べつくしていない。


「小石川植物園ニュースレター」

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