植物学者 大久保三郎の生涯


18 ホイットニー家の再来日

 さて、この間、例のホイットニー家の面々はどうしていたかというと、クララの兄ウィリスは東京大学で電気工学を学んでいた。しかし、母アンナはウィリスが医学の道に進むことを望んだので、彼は横浜の外国人医師について医学を学ぶようになっていた。その後、東京医学校(のちの東大医学部)で教えていたベルツのもとで医学を学んだのだが、正式な学位を得るためアメリカに帰国しようということになった。そうはいっても一家は相変わらず経済的に困窮しており、旅費は勝海舟に頼ることになった。まず、父ウィリアムが明治十二年(一八七九)十二月に先発し、その後を追うように残りの家族も明治十三年(一八八〇)一月二十六日、日本を後にした。
 ウィリスはペンシルバニア大学医学部に入学し、一八八一年に卒業。翌一八八二年、一家は再び来日することを決意する。その理由を『クララの日記』の翻訳者のひとりである一又民子は「日本でのキリスト教の伝道と、ウィリス(長男)をクリスチャン・ドクターとして日本で働かせたいという、母の強い希望からではなかったろうか」と推測している。一家は四月十二日にフィラディルフィアを発ち、二十三日に英国に到着。しかし、父ウィリアムが病気がちでなかなか日本に向けて出発できない。そうこうしているうち、八月二十九日に父ウィリアムスが亡くなり、この地に埋葬することとなった。その後、母アンナと子供たちは九月二十三日にロンドンを発ち、明治十五年(一八八二)十一月十八日、再度日本の土を踏むことになった。このとき兄ウィリスは二十七歳、クララ二十二歳、妹のアディは十四歳になっていた。
 そこまでして日本にこだわる理由がどこにあったのか、その多くはアンナの伝道熱によるものだと言われているが、興味深いのは、そのアンナの信仰心を芽生えさせたのが日本人・冨田鉄之介であったということだ。クララとウィリスの妻の共著である『ドクトル・ホイトニーの思ひ出』によれば、冨田が渡米し、ウィリアムの商業学校で学んでいるとき、アンナに英語を教わっていた。あるとき冨田が「奥さん、僕は聖書を研究したいんです。聖書は最も純粋の英語を包含しているそうですから」といったことからアンナも聖書を勉強するようになったのだという。そして「富田氏が聖書を読むことをいいはらなかったら、夫人は永いことその味気ない悲しい生活を続けたであろう。彼女は深くこの日本人学生に負うところあるを思い、この人の悔い改めのためばかりでなく、更にその国人のために何かしなければならぬ」と思い、「一切を犠牲とし母国を捨てて異国に向かった」のだという。ウィリアムは自分の学校が倒産、アンナは伝道熱。もう、二人には帰るところがなかったのである。
 さて、二度目の来日を果たしたものの、半年もしない明治十六年(一八八三)四月十七日、母アンナが突然他界する。四十九歳の若さだった。東京・青山霊園の外人墓地の第一号地に葬られたが、アンナの二日後に死去したデュ・ブスケが先に埋葬されたので、青山霊園における二人目の外国人ということになる。
 兄ウィリスは、再来日すると在日米国公使館通訳官に任ぜられ、十二年間務めた。その日本語力が多いに認められたからであろう。またこの間に、イギリスで出会ったメリー・カロライン・ブレスウェイトと結婚し、メリーが来日。母の香典で買い求めてあった赤坂氷川町の四〇〇坪の土地に、赤坂病院を建設した。そして明治四十四年(一九一一)年四月に五十六歳で英国に旅立つまで、伝道医師として日本の貧しい人のために精力を傾けた。ウィリスは大正七年(一九一八)一〇月二六日、中風のため死去している。
 ウィリスの妻メリーの弟、ジョージ・ブレスウェイトとその夫人も明治十九年(一八八六)布教のため来日しており、ウィリスとともに伝道活動に力を注いだ。ブレスウェイト夫妻はウィリスが渡英した後も日本に残り、昭和初期まで布教活動をつづけていた。夫妻の墓は青山霊園に、アンナの墓石と並んでいまもある。


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