植物学者 大久保三郎の生涯


19 クララの結婚

 さて、クララである。彼女は先に触れたように明治十八(一八八五)に『手軽西洋料理』という料理本を出版している。母アンナが、日本の食材で簡単に西洋料理をつくる方法を書き残していたようで、その遺稿をクララと櫻井女学校教師の皿城キンとで和訳したものだ。西洋料理本の先駆けといってよい内容で、序文を津田塾大学の創始者・津田梅子の父・津田仙が書いている。同書は明治二〇年(一八八七)にも別の出版社から同内容で出版されているので、かなり売れたということだろう。
 しかし、そんなことより何より、クララには大変なことが起こっていた。なんと勝海舟の息子・梶梅太郎との子を身ごもっていたのである。明治十九年(一八八六)、クララ二十六歳の春のことであった。
 勝海舟は安政二年(一八五五)、三十三歳のとき長崎の海軍伝習所に赴任しているのだが、三年半の間につきあった女性に梶玖磨がいて、その玖磨との間にできた子が梅太郎である。玖磨は慶応二年(一八六六)に二十五歳で没し、三歳の梅太郎は海舟に引き取られ、正妻の民が育てた。クララより四歳年下で、ホイットニー家にしばしば泊まりに来たりして、みなに可愛がられていた。どういう経緯で信仰心の深いクララとそういう仲になったのかは分からないが、これも男女の仲のことである。
 三郎とは直接関係はないが、『勝海舟日記』でクララと梅太郎のことを追ってみる。

 明治十九年四月九日
 目賀多、梅太郎の事につき内話、富田へ話さる由。
 明治十九年四月十四日
 目賀多、於米(およね)、梅太郎につき内談。
 明治十九年四月十五日
 妻梅太郎事につき、木下川(南葛飾郡大木村、勝海舟の別荘があった)并びに目賀田へ参る、同人所在承合為なり。
 明治十九年四月二十八日
 昨夕、目加多種太郎、梅太郎の事申し聞く。
 明治十九年四月二十九日
 富田鉄之介、梅太郎、クララの事、ウイレ承知の旨。
 明治十九年五月三日
 冨田、ウイレ孫クララ、梅太郎と婚礼、来る八日に立結び候旨返答これある由。且、同所へクララ、暫く滞在致さす段なり。
 明治十九年五月四日
 ホイト子ー(ホイットニー)へ、クララ、梅太郎の一件、談。口上書渡す。承服。
 明治十九年五月五日
 木下川へクララ滞留の事、其他内話し置く。
 明治十九年五月六日
 咋、藤島常興、利子十円五十銭受取る。梅太郎へ遣わす。并びにクララへ百円遣わす。
 明治十九年五月七日
 クララ、今日木下川へ引移る、疋田同道。

 勝海舟がクララの妊娠に気付いたのは四月のこと。それから関係者に相談・調整し、あわただしく結婚させることになった。目賀多は男爵・目賀多種太郎のことで、海舟の娘・逸子の夫である。
 九月一日、長男が誕生し、梅久(ウオルター)と名付けられた。梅太郎とクララは勝家屋敷内に建てられた家に住み、梅太郎は横浜のドック会社に勤務するようになる。家計が苦しいのでクララも明治女学校で英語を教えはじめるが、毎年のように子供を出産し、なんと一男五女の母になる。
 日記を見る限り、クララは日本や日本人に対してさほど偏見をもつことなく、親近感さえ抱いている。しかし来日当時に、日本人男性と結婚した英国人女性の話を聞いて、「アングロ・サクソン民族の一員が、モンゴロイドとそんな親しい関係になるなんて、胸がむかつくことだった」と日記に書き込むこともあった。当時の状況を考えれば、西洋人の、東洋の未開の国の国民に対する見方はそんなものだろうという気がするが、そのクララが日本人男性と恋愛し、妊娠したというのも皮肉なことだ。
 明治三十二年(一八九九) 十月二一日、勝海舟が七十七歳で他界すると様相が変わってくる。梅太郎はもともと生活力が弱く、頼りない男だった。また、海舟も、自分がいなくなったら日本での生活についていていけないのではないか、とアメリカに戻ることを認めていた節もある。そこでクララは帰国することを決意し、家族との記念写真を撮ると子供たちを引き連れてあとくされなく日本を後にした。明治三十三年(一九〇〇)五月、クララ三十七歳のことである。クララはペンシルバニア州ブルームスパークやスクラントン、ボルチモア、フィラデルフィアに近いメディアなどを転々としつつ、六人の子供たちを育ていった。生活費は勝家と親戚が送ってきてはいたがそれは足りず、内職で稼いだ金も注ぎ込んでいたという。クララは一九三六年十二月六日、脳溢血で他界している。
 妻に捨てられたかたちの梅太郎は、クララの渡米後、心ならずも離婚届を提出。しばらくして榎本武揚の縁戚の女性と再婚し、二男一女をもうけたが、ぱっとしないまま大正十五年(一九二五)に病没した。

『手軽西洋料理』クララ・ホイトニー

 妹のアディ(アデレード)も母親の影響を大きく受けていた。当然のように信仰心の厚い人間に育ち、世界中で盛んに行なわれていた聖書普及活動に関心を示すようになった。そうして兄ウィリスや津田仙などの協力を得て、十六歳の頃から「日本聖書友の会」の基盤づくりに奔走した。そのうち東京の華族女学校で教師として働くことになったのだが、「友の会」の活動を通じて、当時来日していた宣教師デイヴィッド・M・ラングと知り合い、明治二十六年(一八九三)に結婚する。夫とともに函館で伝道に邁進するが、男児を出産したのち、明治二九年(一八九六)一〇月、二十七歳の若さで亡くなった。アディの墓は、函館の外人墓地にある。
 父はイギリス、母は東京、兄ウィリスはイギリス、クララはアメリカ、アディは函館。ホイットニー家の面々の眠る場所はそれぞれ違っても、日本という異国に身を捧げる覚悟で来日し、教育や医療など様々なかたちで日本の近代化に貢献したことは間違いない。その遺産はいまなお現代に引き継がれているはずであるが、彼らの存在は、いまはほとんど忘れ去られている。


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