植物学者 大久保三郎の生涯


20 研究にしのぎを削る後輩たち

 この間も、大久保三郎は相変わらず植物採集の旅に出かけている。
 明治十九年(一八八六)七月には矢田部教授や学生(柘植千嘉衛、宍戸一郎、染谷徳五郎)たちと植物採集旅行に赴いている。このときは越後清水峠から佐渡島に渡って金北山などを調査し、帰りは岩代国(福島県)猪苗代に寄って八月上旬に帰京している。
明治二〇年(一八八七)四月には、伊豆七島にでかけている。これは東京府が徴兵事務のため千歳丸という御用船で伊豆諸島を巡行するというので、それに便乗したものらしい。一行は官吏や軍人なども含む三〇人の大所帯で、伊豆七島を三十二日間にわたって巡行した。三郎は研究者のリーダー的な立場で、残りは雇や掛、大学院生、学生、写真師などだった。伊豆七島の周囲は岩が険しく、しかも波が高いので、必ずしも安全とはいえない船旅である。しかし、明治維新の後、動植物を探索に行くのは始めてとあって期待も大きかったようだ。
 明治二〇年七月には矢田部教授や学生とともに「山形県下羽前国月山湯殿山羽黒山及秋田県下羽後国鳥海山八郎湖」(『大日本教育会雑誌』)に出張に出かけている。
 こうしたなか、三郎の後輩にあたる研究者や学生たちは、その成果を出版物として披露しはじめていた。たとえば明治二十一年(一八八八)には三好学が『植物自然分科一覧表』一折を刊行。牧野富太郎は先に述べた『日本植物志図篇』の出版を開始する。白井光太郎は『植学自然分科検索表』を訳出。さらに翌年、飯島魁は『中等教育動物学教科書』を出版するなど、それぞれに競い合っていた。
 では三郎はどうだったのだろうか。出版物を挙げると、明治二〇年(一八八七)三月に刊行された『帝国大学植物園植物目録』が挙げられる。これは帝国大学植物園(小石川植物園)内にある植物の目録で、編纂者は理科大学助教授の大久保三郎、教授の矢田部良吉が校閲している。しかしこれは題名に「目録」とあるように研究というよりむしろリストづくりのようなもので、園内の植物を調べ、まとめ上げるという地味な仕事である。牧野のような、他に先んじる意欲的な仕事ではないし、かといって自分ならではの研究の結果としてできあがったものとは考えにくい。
 では、矢田部教授や同僚である松村助教授の活躍はどうだったのだろう。『東洋学芸雑誌』という学術研究誌が明治初期から発刊されているのだが、それを見ると植物学関連では矢田部良吉や松村任三は毎号のように論文を発表している。また、石川千代松の名も多く見られるのに対し、三郎の名前はほとんどない。あるとしても、明治十九年(一八八六)の第五十四号に「ツチトリモチ 蛇菰質問本草外篇巻之一第十二葉」という題名の文章で、かつて天城山で発見した植物を「ラフレシア」の仲間であると発表したが、当時は情報が不足していたので間違っていたと訂正している文章である。また、明治二十一年(一八八八) 十一月の第八十六号では読者からの質問に応える欄を担当している。質問は、アブラムシを退治するのにテレピン油や石炭酸水を使ったが効果がなく対処法を教えて欲しいというものだが、質問自体も編集部の創作のようにも思える簡単な内容でしかない。
 伊藤篤太郎が自分で名付けた学名を多に先駆けて発表し、矢田部良吉もその先陣争いに加わっていたこの時期、三郎はそうしたしのぎを削る争いには加わらず、相変わらずのマイペースで与えられた仕事を着々とこなしている。
 伊豆国田方郡韮山(静岡県三島市の南にある韮山町)の医師の子として生まれ、漢籍や英語を学んで開成学校の教師となり、後に渡米して最新の植物学を日本にもたらした矢田部良吉。常陸松岡藩の家老の子として生まれ、維新後、藩の貢進生として大学南校から開成学校で法律を修得した松村任三、東大教授も勤めた本草学者伊藤圭介の孫で私費で英国留学した伊藤篤太郎、土佐の裕福な商家に生まれたが小学校を中退して植物採集に熱中した牧野富太郎。それぞれ持ち合わせた才能を活かし、地力で地位や名誉を獲得しなくてはならなかった人たちである。一方、大久保三郎は幕府の要職を務めた父親をもち、米国への留学も父親の庇護のもと、どちらかというと流されるままといった方が当たっているはずだ。なにしろ十五歳前後での渡米だったのだから。立身出世をめざし、背水の陣で臨んでいた他の多くの若者たちとは、その考え方も違っていたと見るのが妥当だろう。やはり、徳川家直参旗本のお坊ちゃまという存在からは、抜け出せなかったのではないだろうか。だから、自己顕示欲や出世願望には、さほど興味がなかったように思えてならない。


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