植物学者 大久保三郎の生涯
24 同僚の松村任三
ここで、当時、大久保三郎の同僚だった松村任三のことに触れよう。松村は安政三年(一八五六)常陸国多賀郡の生まれで、三郎より一歳年上だ。旧松岡藩の家老の長男で、維新後、藩の貴進生として大学南校に入学(十五歳)。開成学校で法律学を学んだ後、明治一〇年(一八七七)に東京大学小石川植物園に奉職した。法律を学びながら植物園に勤務するようになった理由は、分からない。午前中は植物学教場に勤め、午後は植物園に出勤し、植物学の知識を得るようになった。むろん、上司は矢田部良吉である。明治十五年(一八八二)に御用掛となり、翌年には三郎とともに助教授に就任している。松村が植物学に接したのは明治一〇年に矢田部が植物学教場を開設してからだから、矢田部の助手を勤めながら植物学の知識を学んでいったわけで、学生ではなかったが愛弟子にあたるといってよいだろう。しかし、玉にきずだったのが海外留学の経験がなかったことだった。矢田部も三郎も留学経験がある。それだけではない。教え子たちも続々と海外を目ざし、戻ってくれば相当の地位を得ていく。松村はそれを目の当たりにして焦っていたと思われる。こうしたこともあって、松村は明治十八年(一八八五)にドイツに留学する。しかし、これは公費ではなく私費での留学であった。
松村の妻と、当時の理学部教授で明治三十一年(一八九八)に帝国大学総長となる菊地大麓の妻は仲がよく、菊地の妻が松村の妻に「早く一度独乙(ドイツ)へ留学してゐないと万事に都合が悪いから、何とか工面して御主人を留学させたら宜しからう」と言ったという話が牧野富太郎『我が思ひ出』の中に書いてあるが、そのようなことはあったのだろう。
十二月十八日、出航の当日、三郎は横浜まで松村の見送りにやってきている。松村の日記は当日のことを「友人大久保三郎、富塚慎、菊地謙二郎ノ諸氏、及ビ、弟松村任次郎等、余ヲ本船マデ送来レリ」と書いているが、一歳年下の三郎を友人の筆頭に名を挙げている。単なる同僚としてではなく、相当の親近感を感じていた間柄だったとみてよいのではないだろうか。ちなみに菊地謙二郎はのちに水戸中学の校長となる人物で、これは松村が茨城県出身であるから同郷のよしみなのだろう。
十五歳足らずでアメリカに留学し、二〇歳で戻ってきた大久保三郎とは違い、松村は植物学の基礎を身につけた上での留学だ。だから、修得した知識の差は大きかったと思う。明治十九年(一八八六)に入学し二十二年(一八八九)に卒業した学生・岡村金太郎が次のように回想している。
「二十一年八月松村先生が独逸から帰朝して、茲に初めて我々は植物解剖学の正式な知識を得ることが出来る様になった。夫迄は別に組織立った解剖学の授業がなく、只澱粉を見るとか、維管束を見るとか、乃至は隠花植物の構造を見るとか、夫も色々の試薬の反応を試みるでもなく、試薬と云えば僅かに沃度チンキ位のものであった。処へ松村先生が何を見るには何の材料を用ゐ、何をどうすれば何が分かると云ふた様なことを表にして示して教材を作られたので…」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「青長屋 - 本邦生物学側面史 -」)
それまでの解剖学がかなり適当に行なわれていたことが分かる。これでは三郎も面目を失ったのではないかと思うが、だからといって三郎も発憤して再度留学するというようなこともしていない。こうして同輩、後輩に着実に後れを取っていくようになるのだが、それを恥じたり焦ったりして、再度留学を志すようなそぶりを見せていないのが三郎らしいところでもあり、不思議になところでもある。