植物学者 大久保三郎の生涯
25 父一翁と、弟業の突然の死
こうしたなか、三郎は折りを見ては勝海舟の元を訪れている。身辺報告なのか何なのか、『勝海舟日記』には訪問者として名前のみが記されているだけなので詳しくは分からないのが残念だ。
明治二十一年(一八八八)七月三一日、三郎の父・大久保一翁が死去する。大きな後ろ盾を失った三郎だが、つづいて家庭内に不幸が発生する。弟であり一翁の嫡子である大久保業(なり)が事故死したのである。
業は欧米留学して鋳冶円学測量鉄道学を修め、明治十九年(一八八六)に帰国すると鉄道局五等技師下として働いていた。明治二十三年(一八九〇)七月七日(墓碑の没年)も盛岡地方線路架設の実測中だったが、その日は強風が吹き荒れていた。その最中に川を渡ろうとして風に煽られ、途中に落下したのである。業は濁流に飲み込まれ、数日後に遺体が発見された。そのとき二十九歳。『勝海舟日記』七月十二日の項には、「大久保業、死体知れ、本日、三郎持帰りの事申し越す」と書かれている。発見された遺体を三郎が引き取ってきたいうことだろう。長男を失った大久保家は八月七日、急遽、業に代わって嫡子である弟の大久保立が家督相続することになった。
『南方熊楠日記』に大久保三郎の名前が登場するのもこの時期だ。明治二〇年(一八八七)一月十二日のことで、当時二〇歳の熊楠は日記に「朝及午後、二度ウドワルド・ガーデンに遊ぶ。夜大久保を訪ひ宿す。価二十五銭」と書いている。熊楠はパシフィック・ビジネス・カレッジに入学するため一月八日にサンフランシスコに到着したばかりで、その足で三郎を訪問したということらしい。『南方熊楠日記』の索引に、この大久保は三郎であるとしてあるのだが、この時期に三郎が米国に行っていたという気配がないのが気にかかる。もし留学していたのなら『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』の年ごとの職員一覧にその旨記載されてもよいはずなのだが、その形跡はない。また、『クララの日記』にアメリカからどのぐらいで郵便物がとどくか書いてあるのだが、一番早い東京号が十四日、ホワイト・スター・ラインの船で十八〜二〇日、アラスカ号で四〇日となっている。単純に行って帰ってくるだけでも一ヵ月から二ヵ月。滞在期間を考慮しても数ヵ月はかかる計算になる。むろん、短期間の私的な旅行の可能性も考えられるが、そうした形跡も見つかっていないので、なんともいえない状態だ。はたして『南方熊楠日記』の「大久保」が「大久保三郎」だったのか。南方熊楠が三郎と顔見知りであった気配はあるのだが、この日この地で再会することを約していたのかどうか定かではない。