植物学者 大久保三郎の生涯


26 矢田部良吉の突然の非職

 明治二〇年(一八八七)五月に学位令が公布され、大博士および博士の学位が授与されることになった。これによって翌二十一年(一八八八)五月、植物学からは前教授の伊藤圭介と矢田部良吉教授に、初の理学博士が授与された。同年年八月には、ドイツに留学中だった松村任三が帰朝して理科大学助教授に戻り、九月に教授に昇格。助教授だった石川千代松は、明治二十三年(一八九〇)五月に農科大学が設立されると、そちらの教授となって転任していった。
 同輩は着々と出世し、若い世代も成長していく。それに伴って、御雇い外国人の数も年々減少。各教育現場では自前の教授を輩出していくようになった。もちろん三郎は相変わらず助教授のままである。こうした最中、突然の出来事が発生する。植物学教室をつくりだし、現場をリードしてきた中心的人物である矢田部教授が明治二十四(一八九一)年三月三十一日に突然非職となったのである。その日のことを前出の学生・岡村金太郎が次のように回想している。
「三月の幾日であつたか … 其日は何かあつたと見えて矢田部先生は殆ど昼頃から教室に居なかつたが、やがて夕暮近い頃、常とは違つた緊張した顔で無言のまゝ部屋へ戻られて間もなく帰宅せられたので、常とは違つた様子に何となく自分等も気遣はれたが、何ぞ知らん、其れから間もなく先生は非職ということになつて、始めて自分等も其日の光景を追想することであつた」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「青長屋 - 本邦生物学側面史 -」
 矢田部の非職は植物学教室史に思い出として書かれるほどあまりにも突然で、学生たちにも動揺が広がったといわれている。牧野富太郎は「その原因は、菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」(『牧野富太郎自叙伝』)としている。
 菊地大麓(一八五五〜一九一七)は当時帝国大学理科大学学長(一八八六〜一八九三)を務めており、明治三十一(一八九八)には東京帝国大学総長に、明治三十四年(一九〇一)には文部大臣になった人物だ。東京大学教授となったのは矢田部と同じ明治一〇年(一八七七)で、ライバル関係はあっただろう。
 牧野は遠因として「西洋かぶれで、鹿鳴館でダンスに熱中したり、先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校の教子を妻君に迎えたり、『国の基』という雑誌に『良人を選ぶには、よろしく理学士か、教育者でなければいかん』と書いて物議を醸したりした。当時の『毎日新聞』には矢田部先生をモデルとした小説が連載され、図まで入っていた」と書いている。牧野は矢田部に植物学教室への出入りを禁止された恨みがあってか矢田部に対して厳しいが、それが直接、非職につながったかどうかは定かではない。けれど、クララに言い寄って嫌われたときのことを思い返すと、矢田部はどこかお騒がせな人物であったことは確かなような気がする。
 岡村金太郎は矢田部の教授ぶりについても次のように語っている。
「二十年から二十二年迄の在学期中、矢田部先生に就いて教授を受けたのであるが、先生は英語で顕花植物の分類を講じ、各科の性質から主なる属の性質を説明したもので、…(中略)…斯んな訳で、其頃は別段隠花植物の系統的な講義もなく、生理学なぞは殆ど全くゼロで、類化作用は確かに講義中にはあつたが呼吸作用はどうであつたか記憶に残つて居らぬ位である。一体先生は恬淡豪放で放任主義であつたから、学生の実験などは何を見て居様とも差支なく、ホンの時々見廻つて顕微鏡を覗いていく位であつた。夫も其筈、先生は其頃いろいろ他に兼務があつたからで、二十年十月から東京盲唖学校長を兼ね、二十一年三月には東京高等女学校長を兼務したような訳であつたからでもあろう」(前掲書)
 日本人離れした考え方、スキャンダラスな行動、マイペースで放任主義の講義。さらに他校の学長を兼務するなど、いまではちょっと考えられないほど活躍していた矢田部にも、東京大学学長への野心があったのだろうか。
 一方、『評伝 三好学』で酒井敏雄は「学長の菊地と教頭である矢田部とは三好のことが原因で確執を生ずるに至った」と推測している。大学院生の三好学を植物分類学に進ませたい矢田部と、新分野である植物生理学に進ませるべきだと主張する菊地および箕作佳吉(動物学の教授で菊地の実弟。後に東京帝大学長)との対立があったからだというのである。両者の話し合いには助教授の松村任三と大久保三郎も参加したが、「矢田部の態度はますます硬化するばかりであった」(『評伝 三好学』)という。また、矢田部は兼職が多く「植物学科では唯一の教授が学生に充分な授業を行えず、講義は外国で出版された教科書を英語で伝えるという形式だった…(中略)…実習や実験を満足に行えない教育者はもはや許されなくなった。これが矢田部を非職にせざるを得なくした主な要因であろう」としている。
 ドイツに学んで最新知識を得てきた松村任三や、抜擢されてドイツに留学した三好学たちと、一〇年以上前の知識しかない矢田部や大久保たちと、力の差が明らかになってきつつあったのは事実かも知れない。しかし、酒井敏雄はこう判断するに至った具体的な文献・資料を提示していないので、推測の域を出ていない論であるように思える。
 さて、矢田部はその後、非職のまま植物学教室に通い、引きつづいて分類学の研究をつづけて『日本植物図説』を完成させたが、明治二十七年(一八九四)三月に免官となり、翌年四月、東京高等師範学校教授を命ぜられる。高等師範では植物学ではなく、英語を教えることになった。その後、東京高等師範の校長になったが、明治三十二年(一八九九)八月八日、鎌倉で水泳中に溺死するという悲劇が矢田部を襲う。その矢田部良吉は現在、東京・谷中霊園に眠っている。享年四十七歳。


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