植物学者 大久保三郎の生涯


27 牧野富太郎、植物学教室助手となる

 明治二十四年(一八九一)三月、日本の植物学を開拓・リードしてきた矢田部良吉が四十一歳で植物学教室を去った。代わって松村任三教授が同年四月一日「帝国大学植物園管理を命ず」の辞令を受け、矢田部に次ぐ二代目の植物学教室主任となった。松村体制の始まりである。菊地大麓総長夫人から松村夫人への「留学してゐないと万事に都合が悪いから」というアドバイスが功を奏しての、思惑通りの昇進というところだろうか。
 松村任三が最初にしたことは、『日本植物志図篇』の一件で矢田部に植物学教室への出入りを禁止され、失意のもとに四国に戻っていた牧野富三郎を呼び戻し、助手に任命することだった。学歴もなく独学で植物学を学び、やっと念願の研究最前線にたどりついたと思ったら一気に奈落へと転落した男の復活である。牧野富三郎、三十一歳でつかんだ憧れの大学職員の座だった。しかし松野はその後、松村に嫌われるようになった、と『自叙伝』に書いている。
「私が植物学雑誌に植物名を?々発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の植物名と抵触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌に余り書いてはいかんと言われた…(中略)…このように松村先生は、学問上からも、感情面からも、私に圧迫を加えるようになった。…(中略)…大学の職員として松村氏の下にこそ居れ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではなし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりではなく、情実で学問の進歩を抑える理屈はないと、私は相変わらず盛んにわが研究の発表をしておった。それが非情に松村氏の忌諱にふれた」
 云々とその理由を挙げているが、ここには牧野富太郎の、自分に都合のいい解釈が多分に含まれているのではないかと思う。実際にどうだったのかは分からないが、四国から呼び寄せてもらった感謝の気持ちよりも、非難の言葉の方が多いということを考えると、牧野の性格がなんとはなく想像できるように気がする。
 先に学位令が公布されたことは書いたが、この学位令にしたがって新たな博士が誕生する。明治二十四年(一八九一)八月、松村任三教授、佐々木忠二郎助教授、石川千代松教授、飯島魁教授、斎田功太郎(大学院)らに理学博士の学位が授与されたのである。ほぼ同期に採用された仲間や、自分が指導した後輩たちがそれぞれに昇格し、博士号まで授与されて行く。こうしたなか、取り残されたように大久保三郎は相変わらず助教授のままだった。  明治二十五年(一八九二)から二十八年まで学生だった市村塘が、この頃のことについて次のように書いている。
「植物学では先生は松村教授、大久保助教授だけで、松村先生の講義は Wiesner-Botanikをお読みになる位、大久保先生は実験室へチョイチョイお顔を御出しになる程度のものであった」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「在学当時の追想」市村塘)
 植物学教室は、松村教授と大久保助教授の二人に、牧野が助手で加わる状態になっていた。しかし、牧野は自分の研究をするばかりで、指導はしていない。しかも、松村に嫌われていると思い込んでいる。そんななかで三郎は、万年助教授の地位に安穏としていた筈なのだが…。


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