植物学者 大久保三郎の生涯


28 大久保三郎の非職

 先にふれた明治二〇年(一八八七)三月に刊行の『帝国大学植物園植物目録』につづき、大久保三郎が初心者向けの植物学用語辞書(英文対訳)『植物学字彙』を編纂、発行したのは明治二十四年(一八九一)年六月のことである。三〇〇ページ近くのボリュームがあり、それまでなかった最大級の対訳字彙として、記録にとどめられるべき労作である。書籍の扉には「理科大学助教授大久保三郎 理学士齊田功太郎 理科大学卒業生染谷徳五郎 共編」とあり、出版元は東京丸善商社。例言には次のように書かれている。

「植物学上ノ学語及ビ植物学家人名ノ略語解符牒ノ解説等ヲ記載シ又巻尾ニ図画数百ヲ附シテ其意義ヲ啓発ス(中略)本書ノ訳語ハ多ク先輩ノ用ヒ来リシモノニ拠ル 然レドモ訳語ノ未ダ定ラザルモノハ其意義ヲ記シ又ハ新訳語を下セリ」
 字彙に掲載した言葉の多くは諸先輩が使ってきたものであり、訳語のないものだけを新たに訳出するという姿勢は、功名心とはほど遠い作業だろう。植物学上の新発見とはあまり縁もなく、コツコツと自分の知識を、これから植物学を学ぼうとする人たちに向けてまとめた『植物学字彙』は、なんとも大久保三郎らしい地味な著作のような気がする。
 さて、三郎が『植物学字彙』を上梓したしばらく後の明治二十四年(一八九一)七月、大学院生だった三好学が選ばれてドイツ留学を命じられる。この件について『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』は「矢田部教授の後継者としての黙約ありしものの如し」と書いており、実際、三好は明治二十八年(一八九五)四月に帰国すると、五月には教授に任命されている。
この間の事情について『東京帝国大学五十年史』はいう。つまり、植物学は「植物分類学」と「植物生理学」に分かれているが、本来、それぞれ専任の教授が必要である。現在は松村教授が一人で兼任しているが植物調査や実験に要する時間も多い。「植物分類学」および「植物生理学」を専門教授に任せるために、専任教授を一人増やす必要がある。だから、一人を海外に留学させ、帰国したら教授にする、と。
 矢田部が去り、松村教授と大久保助教授で支えてきた植物学教室の次の教授として指名されたのは、全国を小まめに歩き回り、調査を重ね、日本植物学会の設立などに貢献してきた大久保三郎ではなく、はるかに後輩の三好学であった。三郎が東京大学助教授時代に指導した学生が、ドイツ留学を経て戻ってくると教授に就任する。しかも三郎に教授昇格の話はなく助教授のまま。そして、植物学教室のリーダーは、かつては友人同士であった松村任三。ひとり取り残される大久保三郎だったが、明治二十八年(一八九五)四月二〇日、三好学の教授就任に先立ち、三郎は文部大臣の名によって理科大学助教授を非職を命じられた。地位はそのままで職を免ぜられる、いわゆる休職扱いである。
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      理科大学助教授 大久保三郎
 右非職相命シ度此段稟議候也
 明治廿八年四月二十日
     文部大臣侯爵西園寺公望
  内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
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 東京大学名誉教授の長田敏行は、三郎の非職を「矢田部関係者の一掃」の一環として見ているようだ。日本植物学会ホームページに掲載されている『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』に、その根拠が述べられている。
 長田によると平瀬作五郎は安政三年(一八五六)福井県生まれ。図画教員として各地を転々としていたが明治二十一年(一八八八)、理科大学時代の東京大学に画工として奉職した。きっかけは矢田部良吉と一緒に米国留学した中井誠太郎とのつながりで、平瀬の画力を見込んだ中井が彼を矢田部に紹介したのが縁だという。生まれつき器用で研究熱心な平瀬は植物学に興味をもち、それが認められて明治二十三年(一八九〇)に植物学教室の助手となった。そして、明治二十七年(一八九四)にイチョウの精子の発見という世界的大発見をなし遂げる。にもかかわらず、その翌年に東京大学を辞めて彦根中学に移ってしまうのである。
 長田は、「この顛末には、帝國大学を発足させ、明治の教育行政に大きく腕を振るった森有礼が暗殺されて帝国大学内の力関係が変わったため」とし、矢田部に対して動物学教授の箕作佳吉および総長菊池大麓(箕作と菊地は実の兄弟)が仕掛けたものと見ている。さらに、「長年の朋友堀(中井)誠太郎は、矢田部に殉じてというより、大いに抗議して非職となり、山口県の農学校の教員になった」と書いている。さらに、「この間に助教授大久保三郎も非職となっており、この関連で平瀬作五郎も退職したのであろうと推定される。これで矢田部の関係者は一掃ということになる」と結論づけている。
 すなわち、矢田部良吉、中井誠太郎、平瀬作五郎、大久保三郎には矢田部派とでもいうべきつながりがあり、矢田部がターゲットにされたせいでそのシンパも追いやられた、という推測である。
 しかし、大久保三郎を矢田部派とくくってしまうのはどうなのだろう。三郎と矢田部は交流範囲も違うし性格や行動スタイルも違う。大学内の上司と部下という立場での関係はあるだろうが、私的な交流・つながりがあったとは思えない。一方で松村任三は三郎を日記の中で「友人」と書き、牧野富太郎も矢田部や松村については非難めいたことを多く書いているが三郎についてとくに悪いことを書いている気配はない。もっとも、箕作と菊地が三郎をそういう目で見ていたという可能性はあるかも知れないが…。
 そもそも三郎は父・大久保一翁の子息として、勝海舟や徳川家の力もあって内務省に籍を置くことができたといえる。さらに、徳川家臣で東京大学教授だった外山正一とのつながりも忘れることができない。しかも、外山は明治三〇年(一八九七)から東京帝国大学総長を務め、明治三十一年(一八九八)年には短期間ながら文部大臣にも就任している。外山と矢田部は同僚として親しく、ローマ字運動や新体詩運動でも行動を共にしているから、三郎も矢田部派と見られた可能性もないではないだろうが、三郎が二人と共感していた、あるいは行動を伴にしていたとはとても思えない。もちろん先に触れたように三郎は羅馬字会に献金しているが、それは、松村任三も同じである。要するに上司へのつき合いにすぎない。派閥に属して何らかの工作を行なうようにはどうしても見えないのだ。
 むしろ、思い当たるのは三郎の向学心・研究心の薄さではないだろうか。学会での発表は行なっているが、テーマが斬新だとも思えない。論文発表はほとんどしていない。海外留学して最新情報を身につけようともしていない。黙々と植物園の植物を分類したり、植物学辞書をコツコツと編纂したり、やっていることは非常に地味なことばかりだ。植物学が新たな飛躍を示そうという時代にあって、三郎の存在が希薄になっていった可能性は高い。想像の域をでるものではないが、そんな理由で旧勢力が押し出され、新たに若い世代が脚光を浴びるようになったのではないだろうか。

『イチョウ精子発見者平瀬作五郎:その業績と周辺』



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