植物学者 大久保三郎の生涯


29 東京高等師範学校へ

 明治二十八年(一八九五)四月二〇日に非職となった三郎だが、東京植物学会にはそのまま残っていたようだ。『植物学雑誌』(第百号)に、五月二十五日に行なわれた役員改選の報告が掲載されている。それによれば会頭は松村任三、幹事に沢田駒二と平瀬作五郎。委員は会頭の推薦によって池野成一、大久保三郎、藤井健二、三好学、白井光太郎が就任している。実をいえば前年までは会頭松村、幹事に大久保、沢田、平瀬の三人体制だった。それが「幹事ハ従来一名ヲ増シテ三名トシ一切ノ事務処理ニ任セシモ追年本会益々隆盛ニ趣キ随テ会務愈繁忙ヲ加ヘタレバ改テ幹事ヲ二名ニ復シ更ニ五名ノ委員ヲ推撰シテ事務ヲ分担シ…」ということにしたという。もともと二名だった幹事を三人に増やしたが、元に戻す。その代わり委員五名を新設するというわけだ。それまで筆頭幹事だった三郎を格下げし、形式的とはいえ委員に据え置く。一方で三好や白井などの新興勢力を委員に昇格させる。なかなか巧妙な人事のように感じられるが、非職となって存在感も薄れ、いずれは帝国大学理科大学を離れて行く三郎の扱いとしては、妥当なものだったのかも知れない。しかし、三郎の立場になってみれば、委員に選ばれたとはいえ、とても落ち着いた気持ちで学会に臨めなかっただろう。
 非職だった三郎は、明治三〇年(一八九七)二月、四〇歳を前にして理科大学を依願免本官となる。依願となってはいるが、実際はクビだろう。そして、二度と理科大学に復職することはなかった。
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            私儀
 御諭示し次第候之依而本官被免候様為度此段奉願候也
     私儀理科大学助教授大久保三郎
 明治三十年二月六日
 文部大臣侯爵蜂須賀茂韶殿
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 理科大学を被免後、三郎は矢田部と同じように東京高等師範学校(後の東京文理科大学、東京教育大学、筑波大学)の教授となる。高等師範で何を教えていたかは定かではないが、おそらく矢田部と同様に英語を教えていたのではないかと思われる。また、被免後もしばらくは植物学会には出席していたようだが、その後の植物学会の記録からは三郎の名前を見つけることはできない。植物学会を退会したのか、会員のままだったかの記録は不明である。また、理科大学を去って後、植物学に関する研究論文をどこかの雑誌に掲載したという形跡もない。後に触れる植物学の教科書を被免直後に出版した以外、植物学とは縁のない生活を送ったようだ。
 ある資料に、三郎は東京高等師範学校教授在任中に死去したとあったのだが、が調べてみると明治三十五(一九〇二)年一二月、三郎は東京高等師範に依願免本官の願いを提出していることが分かった。その理由が「脳充血」である。願いと、添付された診断書は以下の通りである。
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       願書
              私義
 脳充血に罹り何分勤務仕兼候間本官を被免度別紙診断書相添此段奉願候也
  明治三十五年十二月十九日
            東京高等師範学校教授大久保三郎
  文部大臣男爵理学博士菊地大麓殿
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       診断書
          大久保三郎
 右は脳充血症に罹り治療中に有之当分安静療養を要する者と及診断候也
    明治三十五年十二月十八日
      麹町区山元町三丁目五番地
               名倉納
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 脳充血とはあまり聞かない病名だが、インターネットで調べると「脳の血流量が増加した状態。精神的興奮・過労、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と、心臓病、肺気腫(しゅ)、激しい咳(せき)などが原因の静脈性鬱(うつ)血がある」というようなことが書かれている。本当に病気に悩まされていたのかどうかは分からない。依願本免官にあたってそれ相応の事情がなくてはならないので、名目上そうした、ということもあるだろうが、実際がどうだったのかは分からない。


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