植物学者 大久保三郎の生涯
30 瓜生繁子について
三郎は四十五歳でとうとう無職になってしまったわけだが、依願免本官の直後、三郎は『中学植物教科書 』(明治三十六年一月)と『植物教科書 高等女学校 』(明治三十六年七月)を出版している。師範学校を辞める前に書き進めていたものが、完成直前に依願免本官となったのだろう。植物を概論的に記述したもので、中学校の教科書として書かれたものだが、師範学校や農業学校の教科書にも適するだろうと凡例には書かれている。中味はほとんど同じで、『植物学字彙』同様「大久保三郎 齊田功太郎 染谷徳五郎 合著」だが、三郎の肩書きが「理学博士」となっている。いつの間に博士号を取得したのか、ちょっと気になるところだ。
さて、三郎の被免は「東京高等師範学校教授大久保三郎以下二名依願免本官ノ件」という内閣の任免裁可書によって分かるのだが、「以下二名」と書かれているように、同時に依願免本官になった人物がいた。女子高等師範学校教授の瓜生繁子(一八六二〜一九二八)である。辞令は以下の通り。
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東京高等師範学校教授大久保三郎
以下二名依願免本官ノ件
右謹テ奏ス
明治三十五年十二月二十六日
内閣総理大臣伯爵桂太郎(花押)
内閣
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明治三十五年十二月廿五日 内閣書記官
内閣総理大臣(花押) 内閣書記官長(花押)
東京高等師範学校教授大久保三郎
女子高等師範学校教授瓜生 繁
依願免本官
内閣
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東京高等師範学校教授大久保三郎
依願免本官
女子高等師範学校教授瓜生 繁
依願免本官
右謹テ奏ス
明治三十五年十二月二十四日
文部大臣理学博士男爵菊地大麓
文部省
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繁子ではなく繁となっているのは、おそらく本名が繁で、明治になって女性に「子」をつけるようになったので繁子としたのだろう。
さてこの繁子は佐渡奉行属役・益田孝義の四女として文久元年(一八六一)、本郷猿飴横町に生まれた。実兄は三井物産の創設に関わった益田孝で、孝は茶人としても知られている。七歳のとき幕府軍医永井久太郎(玄栄)の養女となり、明治四年(一八七一)に政府の第一回海外女子留学生として津田梅子らとともに渡米し、ヴァッサー大学音楽学校に入学。一〇年間をアメリカで過ごした。明治十五年(一八八二)に帰国すると、学校唱歌のための学校である文部省音楽取調掛に教師として採用され、同年十二月には海軍軍人で男爵の瓜生外吉と結婚した。明治十九(一八八六)年からは東京高等女学校でも教えるようになっている。明治二〇年(一八八六)に音楽取調掛は東京音楽学校(現・東京芸術大学)と改組。明治二十三年(一八九〇)には東京高等女学校が東京女子高等師範学校に吸収合併されたが、繁子は女子高等師範学校兼東京音楽学校の教員として働いていた。まさに、元祖キャリアガールといった働きぶりである。
本来なら何の接点もなさそうな二人なのだが、よく見ていくといくつかの符合が見られる。
・明治維新後、三郎は徳川慶喜にしたがって静岡へ。
・明治維新後、繁子は父・永井久太郎とともに沼津へ。
・明治四年三月、繁子は岩倉使節団とともに渡米し、留学。
・明治四年三月、三郎は自費留学生として渡米
この二人、静岡で出会っていないとも言い切れない。また、渡米したのも同年。三郎は最初にニュージャージー州ニューブラウンズウィックにあるライリンの学校で三ヵ月を過ごし、その後、ブルックリン近郊のフラットブッシュで八ヵ月。そして明治五年(一八七二)春にニューヨーク州オールバールを経てミシガン大学に入学した。ニュージャージーはニューヨークの南西一〇〇キロ余り。ブルックリンはニューヨーク市内、オールバールはポキプシーの北一〇〇キロほどの所にある。
繁子はコネチカット州フェアヘブンのアボットスクールで七年間を過ごし、その後、ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に入学した。フェアヘブンはニューヨークから北東に一〇〇キロほど行ったところで、十四歳の三郎と一〇歳の二人がどこかで接触している可能性もないとはいえない。たとえ接触していなかったとしても、後に同じ敷地内にある東京師範学校と東京女子師範学校の教授として留学時代の話になり、同時期に渡米していたということを話題にしたことはあるかも知れない。
もうひとつ、三郎と繁子を結ぶ因縁がある。先に述べたように繁子の実兄は三井財閥を支えた益田孝で、茶人・益田鈍翁としても知られている。茶器の収集家としても有名で、様々な逸話にも彩られた人物だ。その鈍翁益田孝がある茶釜を入手するのに、三郎の父・大久保一翁が一役買っているのである。先に書いたように三郎の妻・紀能の実家は小石川上水を開設した大久保主水の末裔なのだが、初代主水はその手柄に対して徳川家康から宮島という名の茶釜を拝領した。その茶釜は代々大久保家に伝わってきたのだが、明治維新後に手放され、益田鈍翁のコレクションのひとつとなったのである。このとき、古物商を通して一翁が仲介役をしていたらしいことが分かっている。まさかこのエピソードに三郎や繁子が直接関わっているとは思えないのだが、偶然にしては不思議な縁といえる。
また、奇妙なのが、瓜生繁子の辞職願と診断書である。辞職願は明治三十五年(一九〇二)十二月一七日付、文部大臣菊地大麓宛で次の通りである。
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辞職願
繁儀
病気ノ為職務ニ堪ヘ兼候ニ付辞職
仕度別紙医師診断書相添ヘ此段
願上候也
明治三十五年十二月十七日
女子高等師範学校教授 瓜生繁
文部大臣理学博士男爵菊地大麓殿
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次に診断書なのだが、想像以上に不可思議な内容になっている。
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診断書
瓜生繁子
一 病名 神経衰弱症
現症 精神的労働ニ際シ容易ニ倦怠シ
頭重頭痛ヲ訴ヘ且ツ理解力稍減
衰シ睡眠ハ甚シク障害ヲ蒙リ?
不安ノ梦幻ニ襲ハレ為ニ身体疲労
ヲ覚ヘ僅カノ運動モ心悸亢進眩暈
筋肉疼痛ヲ起シ其他胃部ニ不快ノ
圧迫或ハ胃痛胃部膨満又ハ食欲
減退等ノ諸症候ヲ訴フ
右ハ目下以上ノ如キ症状ヲ訴フルヲ以テ
暫時自己ノ職ヲ廃シ心身ノ安静ヲ求
ムルニ非レハ終ニ荏■(草冠に再)治療シ能ハサルモノト
診断ス
明治三十五年十二月十七日
東京市下谷区中根岸町七拾弐番地
医師 柳 信海
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すでに紹介した通り、三郎の診断書は「脳充血」だった。一方の瓜生繁子は「神経衰弱」である。繁子の症状は異様なほどこと細かに書かれているのも目を引く。全身に倦怠感があって不眠で鼓動は早く眩暈がして頭痛はするは胃がむかむかするは、頭は働かない状態だという。もし、辞めるための口実としての診断書であれば、ここまで詳細な診断書は不必要ではないだろうか。もしかして、学校にいられない、いたくないような出来事でもあったのではないか、と疑りたくなるような病状である。
繁子の退職について『津田梅子を支えた人びと』の「第四章 瓜生繁子」で亀田帛子は、「実際に繁子がこのような神経衰弱症にかかったかどうかはわからない」としつつ、国費で一〇年間留学した負債を二〇年かけて返したので疲れがどっと出て、何もしたくない気分になったとしても責められない」と書いている。五人の子供を育てながら働きつづけてきたツケだということだろうか。
また『舞踏への勧誘』の生田澄江は「二十年の年月を教職と家庭を両立させてきた無理が心身のバランスを崩し始め、もうひたすら休息したい心境になったのだろう」と推測している。しかし、どちらも憶測に過ぎず、非常に歯切れが悪いばかりではなく説得力に乏しい。
本当に繁子は体の自由が効かないほどノイローゼに陥っていたのだろうか? 『舞踏への勧誘』に、繁子の最後の授業を聞いたという学生・岩崎ハナが繁子に宛てた手紙が引用されている。その一部を紹介すると
「私は昨年新聞で先生が引退なさることを知りました。私はとても驚きました。たしかに私どもがお聴きしました最後の授業の際に、そのような噂がございました。けれど私はそれを信じることができませんでした。そして私どもはもしその噂が本当ならば、先生が最後に授業の際にお話があるのではないかと考えておりました」
というもので、第七子の出産を控え、長女の結婚準備も重なっていたようだが、文面から類推するに、繁子がノイローゼに苦しんでいるようには思えない。もし診断書のような症状に悩ませれていたとしたら学校を長期間休むとか、授業中に何らかの異変が見られても不思議はないだろう。こうした点からも、繁子の東京女子高等師範学校退職は、不可思議な謎に包まれている。
東京高等師範学校は、現在の御茶ノ水駅近く、東京医科歯科大学のある場所にあった。そして、東京女子高等師範学校も同じ敷地内にあり、三郎も繁子も英語も教えていた。それだけではない。あの矢田部良吉は東大教授の傍ら明治二十二年(一八八九)から東京女子師範の前身である東京女学校の校長を兼務しており、東大を辞職後は明治二十八年(一八九五)四月に東京高等師範学校の教授に任ぜられ、明治三十一年(一八九八)六月から翌年八月に事故死するまで東京高等師範の校長も務めているのである。さらに、東大植物学教室を卒業し、三郎と『中学植物教科書』を執筆した染谷徳五郎もまた、東京女学校の教師として在籍していた。
矢田部、染谷、三郎らと瓜生繁子はおそらく顔見知りであったろう。もしかしたら、繁子が退職に至った事情も知っているのではないかと推測できるのだが、それを証明するすべは残念ながらない。