植物学者 大久保三郎の生涯


31 日露戦争における常陸丸の遭難

 明治三十七年(一九〇四)二月八日、日露戦争が没発する。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では海戦ばかりが注目されているが、輸送船の遭難も少なくなかった。いまではすっかり忘れられているが、常陸丸と佐渡丸の遭難は多数の犠牲者をだしたことで多くの注目を集めた。
 開戦して四ヵ月たった六月十五日、輸送船・常陸丸は佐渡丸とともに玄界灘を西に向かって航行していた。常陸丸は将兵一〇九五名の他に馬三二〇頭などを積載。佐渡丸も陸軍兵員一〇〇〇余名を搭載していた。そこにロシア・ウラジオストク艦隊所属の三隻の巡洋艦が現れ、突如、砲撃を開始した。常陸丸に乗船していた第一連隊は小銃で反撃するが、なにせ相手は巡洋艦、敵うはずがない。第一連隊長山村中佐、そして乗組員として乗船していた英国人の船長、機関長、運転士らが次々と倒れ、死傷者の山となった。そこで輸送指揮官・須佐中佐は覚悟を決め重要書類を焼却。さらに、連隊旗手の大久保正少尉に軍旗の焼却を命じた。当時から軍旗は神聖なものとされており、敵の軍旗は鹵獲するべき対象だった。もちろん、敵軍に軍旗を奪われるのは大変な恥辱で、命に代えても守るべきものとされていたのである。
 大久保少尉が旗竿を折って火を点ずると、軍旗はみるみる灰燼と帰した。それを見終えると須佐中佐以下将校十八名は自決。部下の兵員の多くも自刃あるいは海中に身を投げたという。敵艦はとどめを刺すべくなおも砲撃をつづけ、ついに常陸丸は沈没。将兵九六三名、乗組員も一三二人が殉職した。生き残った者はわずかに百数十名。これは「将校は船と運命を共にせよ、下士官以下は一人でも多く生還し実情を報告せよ」という須佐中佐の命令によったものだという。
 新聞や雑誌もこの遭難を大きく取り上げているが、将校の自決の手段は割腹自殺、喉を突いての自刃、短銃による自殺などまちまちで、真相は定かではない。それもそうだろう。生き残った軍人は一〇〇名余りで、しかも大半が下士官以下なのだから、将校が自決する場面を確認したとも思えない。マスコミや軍部などによる軍人の美化、神格化は、この頃すでに行なわれていたと考えてよいだろう。
 事件後は常陸丸遭難の歌がつくられたり、悲劇を題材にした琵琶歌「常陸丸」が空前の大流行となった。遭難の歌はもちろんだが、琵琶歌にも「輸送指揮官須佐中佐、是迄なりやと思ひけん、大久保少尉が捧げつる、聯隊旗をば手にとりて、都の方を伏し拝み、火を放ちて焼き棄れば、各将校もとりどりに覚悟のさまをぞ示しける」というように大久保少尉の名前が軍人の鏡として読み込まれた。また、大正七年(一九一八)発行の『興国課外読本 尋常四学年』にもこのエピソードが使用されるなど、おそらくは日本全国、大久保少尉を知らない人はいなかったほど広まっていた。さて、この連隊旗手の大久保少尉とは、大久保三郎の長男・正(まさ)である。


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