牧野富太郎をめぐる謎-1

『植物学雑誌』の首唱者は誰なのか?


3.牧野自身は、自分が提唱したと書いていない


小見出しタイトル

 ところで昭和三〇年前後には、どういうわけか牧野富太郎の伝記が複数刊行されている。

・『牧野富太郎伝』上村登著(昭和三〇年[一九五五]●月●日発行・六月社)
・『植物学九十年』牧野冨三郎(昭和三十一年[一九五六]九月二十日発行・宝文館)
・『草木とともに』牧野富太郎(昭和三十一年[一九五六]十一月●日発行・ダヴィッド社刊)
・『牧野富太郎自叙伝』牧野冨三郎(昭和三十一年[一九五六]十二月二十日発行・馬嶋書房)

 『牧野富太郎伝』を書いた上村登は牧野の愛弟子で、長く牧野の世話をした人物らしいのだが、どのような関係だったのか、よく分かっていない。
 『蘇苔類研究』(第七巻十号・二〇〇〇年)に出ロ博則「上村登博士(1909−1993)の業績と蘚苔類標本・文献類」があり、そこでプロフィールが簡単に紹介されている。高知県生まれで東大卒業後県内の教員を勤め、昭和四十二年(一九六七)に高知学園短期大学教授、昭和五十一年(一九七六)に同短期大学学長になり、定年退職後は高知大学で非常勤講師として植物学を講義したこと。また、蘇苔類研究の草創期の研究者として功績があること。牧野富太郎との関係については「上村先生がコケの研究をはじめられるきっかけは、牧野富太郎博士が勧められたところから始まるようである。このことは、現在、清水市に在住の本会会員の福島久幸氏から聞き及んでいる。福島氏は牧野博士が上村青年にコケの研究について話されている現場に立ち会っておられる。ときに昭和十年頃頃?で、先生が最初にコケの論文として、地方誌の「土佐の博物」の第四巻に「オホミカヅキゴケ土佐に産す」を出された頃である」というのみで、私的な付き合いなどについては触れられていない。
 その、牧野の弟子が書いた伝記がでた翌年に、牧野の自伝ともいうべき書籍が三冊も出ている。牧野が九十四歳で亡くなったのが昭和三十二(一九五七)年一月十八日だから、最晩年に立て続けという様相だ。ところが『植物学九十年』『草木とともに』『牧野富太郎自叙伝』とそれぞれタイトルも出版社も異なるのに内容はおおむね似通っていて、まったく同じ部分・表現も多々ある。もともとは原稿がひとつで、それぞれ少しずついじって違いを無理やりつけたかのような内容である。しかも、自伝が出版されてから第三者の手による伝記が出るというのではなく、第三者の伝記が出版された後に自伝が三冊出るという状態で、非常に奇妙なことである。その謎は謎として、『草木とともに』(牧野富太郎・昭和三十一年[一九五六])における雑誌の創刊話は、次のようになっている。

『草木とともに』牧野富太郎

---------- 『草木とともに』(牧野富太郎・昭和三十一年[一九五六])

「私の下宿によく遊びにきた友人に、市川延次郎(後に田中と改姓)と染谷徳五郎という二人の男がいた。共に東京大学ノ植物学教室の選科の学生だつた。
 市川延次郎は、器用な男で、なかなか通人でもあつた。染谷徳五郎は筆をもつのが好きな男だつた。私は、この人とは極めて懇意にしていた。
 市川延次郎の家は、千住大橋にあり、酒店だつたが、私はよく市川の家に遊びに出かけて、一緒に好物のスキヤキをつついたものだ。
 ある時、市川、染谷、私の三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになつた。三人で、原稿を書き、体裁もできたので、いよいよこれを出版することになつた。そこで一応、植物学教室の矢田部教授に諒解を求めて置かねばならんと思い、矢田部教授にこの旨を伝えた。
 矢田部教授は、大讃成で、この雑誌を、東京植物学会の機関誌にしたいという意見だつた。
 このようにして、明治二十一年、私たち三人の作つた雑誌が土台となり、矢田部教授の手がこれに加わり、「植物学雑誌」創刊号が発刊されることになつた。」


 ここで牧野は発案者の名前を特定せず、三人で相談の結果、雑誌が誕生したと書いている。それでは『植物学九十年』ではどうなっているだろう。

『植物学九十年』牧野富太郎

---------- 『植物学九十年』牧野富太郎

 その前から植物学雑誌というのがあって、これは始め私共がこしらえて今でも続いているがその雑誌へ私は日本植物の研究の結果を続々発表していた。


 と簡潔に、市川(田中)と染谷の名をを省略してはいるが、創刊したのは「私共」であると書いている。これは、ある意味では非常に正直だともいえる。なぜなら、「私が言いだした」とは書いていないからだ。そうは書けない事情を、牧野が自覚していたからだろう。それでは、『自叙伝』ではどうなっているだろう。

『牧野富太郎自叙伝』牧野富太郎

---------- 『牧野富太郎自叙伝』牧野富太郎

 或時・市川・染谷、私と三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになった。原稿も出来、体裁も出来たので、一応矢田部先生に諒解を求めて置かねばならんと思い、先生にこの旨を伝えた。
 その時矢田部先生がいうには、当時既に存在していた東京植物学会には、未だ機関誌がないから、この雑誌を機関誌にしたいということであった。
 このようにして、明治二十一年、私達の作った雑誌が、土台となり、矢田部さんの手がそれに加わり、『植物学雑誌』創刊号が発刊されることとなった。


 このように、「三人の相談」であると書かれている。三冊の自伝では、牧野自身は決して「牧野の発案」とは書いていない。にも関わらず、上村登は牧野の発案であると書き、渋谷章は曖昧にしつつ、「熱心だったのは牧野」と推測を交えて牧野押しをしている。これはいったいどういうことだろう。


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