牧野富太郎をめぐる謎-1

『植物學雑誌』の首唱者は誰なのか?


4.第三者はどのように書いているか


『牧野富太郎傳』中村浩

 他に『植物学雑誌』の創刊に関する記述はないかと探してみたら、いくつか見つかった。まずは『近代日本の科学者 第二巻』に収められている『牧野富太郎傳』中村浩(昭和十七年・一九四三)である。

---------- 『牧野富太郎傳』中村浩

 明治二十一年先生は矢田部教授の援助のもとに植物學教室の友人市川延次郎(後に田中と改む)染谷徳五郎氏等と計り、「植物学雑誌」を創刊し、續々とこれに論文を發表した。


 とあるのみで、誰がとは特定しておらず、また表記も素っ気ない。ただし、元になっているのは(昭和十四年(一九三九)に『日本民族』に連載された『牧野富太郎自叙伝』ではないかと思われる。実はこの連載が(昭和三十一年(一九五六)に出版された『牧野富太郎自叙伝』のベースになっているのだが、これについては後に触れる。
 他はどうだろう。たとえば明治三十八年(一九〇五)十月発行の『植物学雑誌』(十九巻二二五号)に、「故市川延次郎氏」(白井光太郎)と題された追悼文があり、そこで白井は市川延次郎の略伝を簡潔に記した後、次のように書いている。


「故市川延次郎氏」白井光太郎

白井光太郎が、市川延次郎の死に対して追悼文を書いている。

---------- 「故市川延次郎氏」白井光太郎(●●雑誌名)

 植物学雑誌創刊ノ際大久保氏等ト共ニ周旋大ニ勤メララレタルハ本誌ニ特筆スベキノ事実ナリトス


 なんと、ここには牧野の名は登場しない。追悼文が書かれた明治三十八年(一九〇五)といえば松村任三が植物学教室の教授として君臨し、牧野は助手として働いていた時代である。また、大久保三郎は非職となり、すでに植物学教室を去っていた。白井としては大久保三郎に気を使う必要はまったくない。むしろ、この文を牧野が目にするであろうことを知りながら、白井は雑誌創刊を主導したのは大久保三郎と市川延次郎であると書いているのである。いったいどうなっているのだろう。創刊に関わった人物のうち、教職員の代表として大久保三郎を、また首唱者であり学生代表として田中(市川)延次郎を功労者として挙げているのだろうか。


「回顧雑談」三好学

 次に引用するのは、東京植物学会五十年を記念する『植物学雑誌』四十八巻(五四四号)・昭和七年(一九三二)で、当時の会長である三好学が「回顧雑談」として書いたものだ。

---------- 「回顧雑談」三好学

「植物学雑誌ノ創刊ハ明治二十年二月デ、ソノ前本郷理科大学「青長屋」ノ植物学教室デ職員・学生ガ度々協議シテ遂ニ発刊スルコトニナツタ。東京植物学会ノ歴史ハ大久保三郎氏ガ植物学雑誌第一號ニ掲ゲラレ、ソノ中二雑誌発行二至ル経路ガ述ベテアル」


三好は特定の個人名を出すことなく、教職員と学生の協議によって発刊に至ったと書いている。発案者の名前を故意に隠していることがあるのだろうか。

「Concerning the Foundation of the Tokyo Botanical Society」宮部金吾

三好学の「回顧雑談」が掲載された『植物学雑誌』四十八巻には、宮部金吾も「Concerning the Foundation of the Tokyo Botanical Society」と題した英文を寄稿している。これは三好の回想を裏付ける内容となっている。

---------- 「Concerning the Foundation of the Tokyo Botanical Society」宮部金吾

「During five years from the time of the birth of the Society to that of the publication of its organ, the Tokyo Botanical Magazine, in 1887, the Society had led a rather inactive and at times precarious existence. But the gradual increase of the new members had revived its activity, which was manifested in the bold attempt of the publication of the monthly magazine. Among the members, who took active part in this enterprise, the names of SABURO OKUBO, TOMITAROMAKINO, ENJIRO TANAKA,TOKUGOROSOMEYA,KOTAROSAIDA, KOTAROSHIRAI, MANABU MIYOSHI, CHIKAYE TSUGE and KOMAJIRO SAWADA should long be remembered.」


 引用したのはその末尾の部分である。内容は、学会創設から『植物学雑誌』刊行までの五年間は活動も低調で存立の危機もあったが、卒業生たちの参加で学会活動も復活し、大胆にも月刊誌まで発行されるに至ったとし、その過程で活躍したメンバーが列記されている。順に大久保三郎、牧野冨三郎、田中(市川)延次郎、染谷徳五郎、斉田功太郎、白井光太郎、三好学、柘植千嘉衛、沢田駒次郎の九人で、三郎は「植物学雑誌」創刊前年の明治十九年(一八八六)十月に助教授になったばかり。牧野は植物学教室に出入りするようになってまだ二、三年で、以下はまだ学生である。牧野の名前を二番目に持ってきた理由は分からないが、牧野の発案とは書かれていない。


『日本生物学の歴史』上野益三

 さらに、昭和十四年(一九三九)に発行された上野益三『日本生物学の歴史』では、次のように書かれている。

---------- 『日本生物学の歴史』上野益三

 明治二十年(西暦一八八七年)二月には、その機関雑誌として、「植物学雑誌」を発刊した。発行の首唱者は田中延次郎、染谷徳五郎、牧野富太郎等で、これらの諸氏の論著が創刊号の紙上を飾つてゐる


 上野は首唱者を三人挙げ、田中を筆頭に、牧野を最後にもってきている。上野益三は『年表日本博物学史』(平成元年・一九八九)でも、雑誌発行の主唱者は田中(市川)、染谷、牧野の順に挙げている。発案者は分からずじまいで、の三人の相談によって生まれたとするのが定説なのだろうか。




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