---------- 『大生物学者と生物学』篠遠喜人、向坂道治
植物学雑誌(The Botanical Magazine)は我邦学術雑誌の最古の一つで、今や四十四巻に達し、毎月一回発行し、世界的な雑誌となつてゐる。その創刊は明治廿年(1887)二月で東京植物学会の機関雑誌となつてゐるが、その創刊の事情は、それに與つた牧野富太郎にきくに、第一の主唱者は田中(市川)延次郎氏(図224参照、当時植物撰科にて菌類の研究家)で、これに参加したのが、やはり撰科に居た染谷徳五郎氏(図224参照)と当時教室に出入りしてゐた牧野氏の三人であつた。三人で原稿を集めて発刊する筈であつたが、田中氏の話をきいた矢田部良吉氏が、東京植物学会機関誌とすることを提議し、遂にその運びとなつて、明治廿年二月十五日第一巻第一號(図206)が生れたのである。「植物学雑誌」なる隷書の五字は田中氏の字ださうで、字体はそのまゝ保存されている」(図表に関する記述もも原文のまま引用)
なんと牧野は、『植物学雑誌』の主唱者は田中(市川)で、その話に染谷と牧野が乗った、と語っているではないか。題字も田中延次郎が書くなど、田中の熱の入れ方もひととおり出ない様子が感じられる。昭和五年刊の『大生物学者と生物学』の記述内容に、牧野がクレームをつけたという話も聞いていない。これは牧野本人の話なのだから間違いのないところだろう。ところでこの文は、話の流れが『草木とともに』にどことなく似ている気がする。単純な経緯なのだから『草木とともに』が『大生物学者と生物学』に似ていても不思議ではないのだが、どうも気になってしまう。
---------- 『「植物學雑誌」發刊當時ノ事情』牧野富太郎(昭和二年『植物研究雑誌』)
抑モ此『植物學雑誌』ノ第一ノ首唱者ハ今ハ疾ク故人トナッタ市川延次郎君即チ田中(改姓)延次郎君デアッタ 同君ハ明治十九年ニ理科大學ノ植物撰科ニ居ッタ人デアッタガ天性誠ニ器用デアッタ(専門トシテ菌類ヲ研究シテ居ッタ、種々波瀾ノアッタ人デ後遂ニ病ヲ得テ歿シタ)此雑誌モ同君ガ時當大學在學中ニ發起シタモノデ之レニ參加シタノハ同ジク理科ニ居ッタ染谷徳五郎君(同君モ数年前ニ故人トナッタ)ト當時東京ニ居ッテ常ニ大學ノ植物學教室ヘ出入シテ居ッタ私トデアッタ、三人デ原稿ヲ纏メ之レヲ何レカノ書店デデモ出版サス積リデアッタガ先ヅ其時ノ植物學教室デ田中、染谷君等ノ師デアル矢田部良吉先生ニ田中君ガ雑誌発行ノ事ヲ話シニ行ッタ、乃デ矢田部先生ノ言ハルヽニハ東京植物學會ハ疾クニ設立セラレテ今續イテハ居ルガ尚未雑誌ガナイカライッソノ事之レヲ會ノ機関トシテ會デ發行シタラヨイト思フ就テハ其原稿ヲ會ヘ譲ッテ貰ヒタイトノ事デアッタノデ其レハ大變結構ナ事ト早速先生ノ言ニ従ヒ其原稿ヲ會ヘ渡シ會デハ尚其體裁ヲ整ヘ會ノ歴史(下ニ出ス)ナドモ加ヘ又他ノ論説記事ヲモ補足シ愈々明治二十年二月二十五日に『植物學雑誌』ノ第一巻第一號(前頁ニ縮寫シテ掲ゲテアルノハ其表紙デアル)ガ呱々ノ聲ヲ揚ゲタノデアル(中略) 此雑誌ノ表紙ニ在ル植物學雑誌ナル隷書五字ノ題字ハナンデモ田中君ノ筆ニ成ッタモノヽヤウニ覺エテ居ル此筆蹟ガ今尚其表紙ニ印セラレテ發刊當時ノ俤ヲ存續シテ居ルノハ誠ニ思出デノたねノ一ツデアル
まさに牧野自身が自分の筆で「首唱者ハ田中延次郎」と明言している。また、矢田部教授のところに雑誌発行のことを話しに行ったのも田中であるとも書いている。こうした経緯については、『牧野富太郎自伝』他の記述とほぼ同じで、雑誌の題字が田中延次郎の手になることも含めて、この文章が元になっているとみて間違いないように思う。また、前出『大生物学者と生物学』も、この文章に沿って書かれているように思える。