パキスタン 0422
ホテル内もとても暑く、30度近くはあるだろうが、外に出ると日射が強く、さらに暑い。街や人々は、中国と全く違い、イスラム世界である。文化の違う所に入ると、わくわくして来て、
又、楽しい気分にもなってくる。男達は、明るく、女性は、エキゾチックである。男は、トルファン、ウルムチと似ているところもあるが、女性は全く違う。少々浅黒く、目元に特徴がある。
とても、音楽好きな国民のようで、コーランに混じって、民族音楽?を、よく耳にした。空気は、中国の西域に比べると、湿度が高い、そして外の温度は、彼の温度計によると、
39度とのことである。
ラーワルピンディーの街
バザールのある通りなどは、人でごったがえしており、その十字路などは、信号も無く、車、人、馬車、自転車、などが入り乱れ交差し、よくこれで事故が起きないのが、不思議なようである。
バスやスズキの軽トラックなどには、トラック野郎顔負けの装飾をしており、そのしつこさ、気の入れようたるや、大変なエネルギーである。もともとイスラム世界の人々は、
そういった細かな装飾が得意なのであろう。
イスラムの習慣である、断食中(ラマダン)であったので、ホテルのレストランでやっと昼食を取ることができた。客は、我々とあと一人、後から入って来ただけであった。
店でコーラを買っても、店先では飲めず、持って帰って飲めとの事、ビン代のデポジットを取られ渡された。断食中は、昼間の食事には、不自由した。
日没と共に、食事が出来るらしく、夜になると、その反動で街は活気づく。
夜のモスク
夕食後、夜の街に出て、ネオンで飾られたモスクの塔を、写真に取る。通りは、人々で賑やかで、歩道にテーブルを出し、 ティーを飲んだりしている。イスラムの国なので、酒は飲みたくても、売っていない。昼間と違い、夜はしのぎやすいし、こんなお祭りみたいな夜には、さぞかしビールがうまいだろうと思うが、
これが彼らの、日常なのであろう。
表に見えるイスラム世界は、男社会である。昼間でさえ女性は、一人で歩くことは無く、ましてや夜は、外出さえしないようである。連れの彼は、彼らに捕まりティーを飲むはめになった。
僕は、カメラを出したら、子供たちが集まって来るので、早々に引き上げた。旅行者が珍しいようであった。危険は無いようであるが、夜は気を付けたにこした事はないと思った。
昼食を取るためにホリデーインに入ったのであるが、スープが特にうまかったことを覚えているが、ファサードやインテリアのセンスは良いものであった。
その後、ファイサルモスクに行き、久しぶりにスケッチをした。スニーカーを履いて建物の廻りを歩いていると、現地の人が、靴を指差し、ここでは裸足になるんだと教えてくれた。
すまなそうな表情をすると、まあいいんだと言う様な笑顔が帰って来る。
ファイサルモスク
抜けるような青空のもと、白大理石が強い日射に輝き、4本の高さ90mはあるというミナレットが天を突き、幾何学的に水が配され、 又背後は緑豊かな小高い丘(マラガヒル)で、ロケーションと共に、美しいものであった。
内部にも入ってみた。イスラム教であるために、内部のインテリアは、モザイクパターンのデザインであり、外は40度はあるだろうが、中は少しひんやりしている。
建物周囲の水面部分に空けられた、外壁の地窓から、水面を反射した光が入りが内部に差し込み、効果的であった。
またトップライトや壁面からの光の入れ方など、まさに純粋モダニズムの世界であったが、機能至上主義の無味乾燥な空間ではけしてなかった。
全体の形はともかく、細部のデザインや、プロポーションの良さには、目をみはるものがあり、私は設計者の手腕の高さと、情熱の大きさに心打たれた。
ホリデーインもそうであるが、細部まで良くデザインされており、 デザインの一貫性が感じられる。これは多分に設計期間の長さに関係していると思う。日本のデザイナーのその能力が、
特に劣っている訳ではないだろうが、設計期間の短さは、形となった時には、どうしても分かってしまうものであろう。又設計に対する真摯な態度が感じられた。
尻が痛くなるまでスケッチをして、又バスに乗り、帰った。
ファイサルモスク/ミナレット
スケッチ/ファイサルモスク
タフティー・バハイ/パキスタン 0430
朝食を1階のレストランで取り、出かける。又もエアコンバスには乗れず、暑い車内であった。90分ほどでタフティー・バハイの街に着き、 道順はDSTに書いてある通りであった。
保存状態が他に比べて良く、全体をイメージしやすい。
タフティー・バハイの寺院跡
山の尾根の先端の一番見晴らしの良いところに位置しているのは、タキシラの遺跡などと共通性がある。ガイドブックによると、 1~7世紀頃とあり、山岳仏教寺院の代表であるらしい。なんでも、その当時は、壁は全て、漆喰で白く塗られ、さぞ神々しかったであろう。後世に、その姿を残すのは、
宗教建築のみであるかのようであるが、誰がこの地を定め、誰が計画し、又何人が作ったのか知らないが、ここに人々のエネルギーが存在していたことは、今見ても確かに分かる。
ストゥーパの在った塔院の周りの小室の天井は、鉄平石の様な石を巧みに積み、ドームを形造っているが、漆喰が取れた今でも、その下地である石積みは、綺麗なドームの形を見せている。
これが、1,500年程前の創造物であり、デザインであるのであろうが、今見ても、なんら違和感無く受けとめられる。
スケッチ/寺院跡平面図
人間、一生の人生を、いかに生きるべきかというテーマは、太古の昔から変わらないテーマであり、又、 人間は必ず死ぬという運命のもとに生まれて来る、そしてそのテーマに気付き、考え悩み、研究するうちに、人は死を迎える。しかしその死が在るからこそ、宗教は無くならず、
人の心を捕らえ続ける力を持つのであろう。
中院より塔院を望む
仏教と仏像は、切り離せないものと思っていたが、その最初には、仏像は無かったのである。そのことを、この目で見れたことは、大きな意味を持つような気がする。
形やスタイル、教義の原形を見ることは、何においても必要なことであろう。
スケッチ/塔院復元図
多分これが、今回の私の旅のテーマなのかも知れない。何物にも捕らわれない、フランクな心を掴みたいのではないだろうか。多分それは、 終わりの無い旅であり、その旅の終わりは、死でもってピリオドが打たれるのであろう。
寺院内より遠方を望む
ラホール/パキスタン 0509
ダータガンジ・バフシェまで、オート力車で行き、歩いて、BADSHAHIモスクへ。サーキュラRdを歩いて行くとねぎ坊主が見えて来る。
この通りも、車やトンガが入り乱れて通り、道脇は、バザールの店が連なり、暑さと喧騒と、埃でむせかえる様であった。私は、こういう道を長く歩いていると、 多分いつかは病気になるだろうと思ってしまう。馬糞が乾燥して舞っているし、道端は、馬糞の中の植物の繊維が、埃と一緒に吹きだまっている。
BADSHAHIモスク
スケッチ/BADSHAHIモスク
旧市街に入ると、道は舗装されておらず、ぬかるみも所々在ったりする。道を尋ねながら、BADSHAHIへ。
通りを曲がると、いきなり、ねぎ坊主の裏側が、目に入って来る。確かに大きい。ゲートを入ると、(たいがい乞食が居るのであるが、無視して入る)公園風の広場が在り、左手がモスク、
右手にラホールFortのアーラムギーリ・ゲートが目に入る。見たい物が2つ隣合わせにあるというのは、便利で嬉しくなって来る。
旧市街のアパートメント
ラホールFortは、増築が繰り返されているためか、中心性の無いものであったが、中庭を囲む、皇帝の謁見の間などは、 プライベート性と、ヒュウマンスケールで、人間の人間らしい率直な感情が感じられて、当時の人々の息ずかいが伝わって来る様であった。
ラホールFort/アーラムギーリ・ゲート
そこで目を引いた物は、水盤というか、水は出ていないが、浅い噴水が在り、白大理石を、綺麗にデザインした、素敵なものであった。そのモチーフは、いたる所に在り、
いかに、水を大切に思い、親しんでいたかが分かり、人間味を感じた。この様な小さな、そしてステキな水盤は初めてである。
謁見の間の水盤
それともう1つ目を引いた物は、大理石や、砂岩で作られているのであるが、石の透かし彫りのパターン模様が、大変綺麗であったことである。
これは、高い階の部屋の、外壁に取り付けられているのであるが、 外の風景もある程度透けて、綺麗に見え、又風も入って来るし、外からは、目隠しの役目も果たしている。
石の透かしとは思えない、軽やかなデザインには、本当に驚いた。
石の透かし彫り模様
パキスタンからイラン国境に向かう列車が出る街、クエッタ
クエッタの最初の印象は、砂漠に囲まれていて、中国の火焔山のような、岩山があり、いかにも辺境というか、これより先は、 砂漠しか広がっていないことを感じさせるものであった。そう熱くないので助かった。標高が、1,600m位の高地のためだろうか。トルファンなどでもそう感じたが、のんびりしたところがある。人も、
車も、そう喧しく動き廻らず、人々も、そうしつこく声を掛けて来たりしない。何か、のんびり自由なところがあるように感じた。
夕食の時、食堂で、日本人3人と同席になった。その内の一人は、ぺシャワールで出会った人であった。
0513、 外国人旅行者証明書を作れば、25%割引になるというので、作りに行く。そこで昨日の、下田君と一緒になり、切符を買いに駅へ行ったが、なんと、Fullとのこと。灼熱地獄の、
砂漠の中を、寝るところも無いとは、なんと悲惨なことか。
係員曰く、16日の9時に又来い、運が良ければ、キャンセルが出るからとのこと。
2人とも、1か月という、パキスタン滞在期限が迫っているので、出発の日を、伸ばしたくはなかった。
クエッタのバザールの様子
ここクエッタは、1935年に大地震があり、街全体が廃虚と化し、その後作られた、全く新しい街であるため、歴史的な建造物は、ほとんど無いのだそうである。
私としても、週2便イラン国境へ向かう列車が、この街から出るというので、やって来たまでのことで、さして見たいものは、無かった。私としては、このような街の方がのんびりできるのであるが、
しかし、1か月ぶりぐらいに、絵はがきを、10枚書ほど書いたのには、疲れてしまった。
0514、 久しぶりに、朝食をレストランで食べた。午後、ハガキを出しに街に行き、バザールを歩いた。扱っているのは、生活雑貨品がほとんであった。
バザールを歩いている人は、パキスタン人、イラン人、アフガン人などがほとんどであろう。
0515、 9時に駅に行くが、席は取れなかった。さしてすることも無いので、午前中は寝ていた。昨夜洗ったジーパンが、 部屋の中につるしているのに、もうパリパリに乾いている。午後は、ミネラルウォーターなどを買って、明日の出発の、準備をした。
昼頃、ラホールで会った、2人の日本人がムスリムホテルに着いた。列車で、33時間かかり、車内は、予想以上に暑かったとのこと。その事を思うと、明日のタフタンまでの列車は、
寝台が取れそうも無いので、先が思いやられた。その彼らも、明日の列車に乗ろうか、などと言っていたが、全くタフなことである。
ラホール美術館チケット