トップ(top)   ダービーのマーク一覧のトップ

ダービーのマーク一覧(2)

2.1770−1784年頃(チェルシー・ダービー期:ウィリアム・デュズベリーT世後期)のマーク


(a)チェルシー工場のマーク
番号 マーク 年 代 説 明
2a-1 「金色の錨」マーク 1770-83年頃

(注:チェルシー工場は、1783年末に実質操業停止。)
 チェルシーで従来から用いられていた「金色の錨」マークは、チェルシー・ダービー期の全期間に渡って、チェルシー工場で使用され続けた。ただし、1770年以降はチェルシー工場では磁器焼成は行われず、ダービー工場で焼かれた素地に絵付けのみを行っていたと考えられている。(なお、ダービー工場で絵付けされた壺にも、このマークが使用された例がある。)

 したがって、「金色の錨」マークの記された作品については、1769年以前のチェルシー作品であるのか、1770年以降のチェルシー・ダービー期の作品であるのか、慎重な判断が必要である。(使用期間だけ見れば、チェルシーの「ゴールド・アンカー期」は1759-69年の11年間であるのに対し、「チェルシー・ダービー期」は1770-83年と14年間あり、こちらの方が長い。)さらには、1760年代のダービー作品でも一部「金色の錨」マークが用いられている例が知られており、状況を一層複雑にしている。

 なお、このマークには後世の模倣が極めて多い点にも、もちろん注意が必要である。
2a-2



1775-76/77年頃  チェルシー・ダービー期に用いられた各種マークの中で、最も希少なもの。国王ジョージV世のご用達となった1775年から、ごく短期間のみ、チェルシー工場で用いられたマークだとされている。ほとんど全て、金色で描かれる。

 「金色の錨」マークの使用が継続する中で、短期間のみこの王冠を配したマークが使用された理由、またその間は図柄などによってマークの使い分けがされたのかどうかなど、不明な点は多い。

 なお、3番目の写真では赤で描かれているが、これは極めて例外的なマークである。マークの描き方は1番目の金色のマークとよく似ているが、絵付けなど作品の特徴から、赤いマークは1780年代(場合によってはチェルシー・ダービー期の終了以降)のもので、さらには外部絵付けされた作品に付けられたものの可能性もあるとの指摘があるが、今後の研究成果を待つ必要がある。


(b)ダービー工場のマーク  
番号 マーク 年 代 説 明
2b-1







1771/72-77年頃  ダービー工場で初めて導入された統一マークである。チェルシー窯で従来用いられてきた錨のマークとダービー(あるいはデュズベリー)のDとを組み合わせたもので、金色で描かれる。チェルシー窯との継続性を強く感じさせるマークである。

 このマークは、従来はチェルシー・ダービー期においてチェルシー工場で用いられたものだと考えられ、一般に「チェルシー・ダービー作品」と言えば、このマークの付いた作品を指すとみなされてきた。しかし、最新の研究では、このマークの記された作品の素地や絵付けの特徴などから、このマークはダービー工場で使用されたもので、しかもチェルシー・ダービー期の全期間ではなく、前半のみで使用されたものだとされている。
2b-2









1777-84年頃  上記2b-1のマークの後に導入された、チェルシー・ダービー期後半のマーク。釉薬上に青色で描かれる。王冠の下にダービー(あるいはデュズベリー)の頭文字であるDを配したもので、後世のコレクターの間で、ダービー製品が一般に「クラウン・ダービー」という愛称で呼ばれる由来となった。

 国王ジョージV世のご用達となったのは1775年のことであり、チェルシー工場では、その年から王冠を配した2a-2のマークを導入しているが、ダービー工場でこの王冠を配したマークが使用されたのは少し遅れて1777年頃からのことだったようである。(従来は、このマークも1775年頃から使用が開始されたと考えられていた。)

 すなわち、チェルシー工場では、1775年当初から王冠のマークが導入されつつも短期間で使用が中止され、ちょうどその中止された頃からダービー工場では王冠のマークが使われるようになった、ということになる。その理由がどのようなところにあったのかについては、更なる研究が必要だと思われる。

 また、このマークには、暗褐色(puce)で描かれたものもあるが、これは1780/81-84年頃に(青色のマークと並行して)用いられたマークだと考えられている。ただし、色を使い分けた理由については明らかでない。

 なお、この「王冠の下にD」マークについては、1784年以降の「交差バトンマーク」との比較研究により、各マークを描いた金彩師の名前がほぼ明らかになっている。ちなみに、左の写真では、最初の2点がThomas Soareによるもの、次の2点がJoseph Stablesのもの、最後の1点がEdward Withersによるものと考えられる。(ウィリアム・デュズベリーU世期のマーク(3-1)参照。
2b-3 1778-80/81年頃  チェルシー・ダービー期の後期に用いられた謎の多いマーク。アルファベットのNを筆記体で記したもので、書き始めと書き終わりに丸いはねがあり、磁体に刻み込まれているのが一般的である。手刻みのため、あまり一定した形状ではない。また、Nが何を表すのかも不明である。

 さらに、多くの場合、Nの近くの高台付け根あたりに小さな穴が彫られている。これはセーヴルで吊るし焼きに用いられた穴を模したものだとされている。セーヴルの作品では穴の中は釉薬がかかっていないが、ダービー場合は模しただけなので、穴自体も浅く、釉薬もかかっている。

 このNマークは、左の写真のように単独で用いられている場合もあるが、上記2b-2欄の写真のいくつかのように「王冠とD」のマークと合わせて付されている場合も少なくない。また、上記2a-1の「金色の錨」マークと合わせて記された例も知られている。


 またこのマークは、一般的に皿やカップなどの実用品に付けられたマークであるが、フィギュアや壺などの装飾作品にも使用された例がある。(ダービー「D2-8」を参照。)

 なお、このNマークには釉薬上の青色や金彩で描かれたものもある(ただし稀である)が、それらは特注品との関係で論じられている。
2b-4 チェルシー・ダービー期に導入され、1780年代後半頃まで使用されたと見られる。  伊万里風図柄の一つが描かれた作品限定的に使用されたマーク(ダービー「D3-7」を参照)。なお、この図柄には、後にデザート3番という番号が与えられた。

 釉薬上の青色で、四角枠の中に丸や線が描かれている。東洋のマークをデフォルメしたものである。四角枠(二重枠の場合も)の中に線が一本だけ描かれたものから、丸が渦巻状になっているものまで、多様なバリエーションがある。

 このマークには、金彩師番号が合わせて付されている例があり、1784年以降の「交差バトンマーク」の時期に入っても使用が継続されたと考えられているが、一方で、この図柄の作品に「交差バトンマーク」が記されている例もあり、1780年代終わり頃までには使用されなくなったと思われる。
2b-5 1750年代後半頃に導入され、チェルシー・ダービー期の全期間、さらにその後も使用された。  一般に「パッチマーク(patch mark)」(あるいは「パッドマーク(pad mark)」)と呼ばれるもの。窯の中で、3〜4個の球状の台の上に作品を置いて焼いたために付いた黒ずんだ丸い焼き痕であり、意図的に付けられた窯印ではない。
 パッチマークは、ウィリアム・デュズベリーT世初期の作品から見られ、チェルシー・ダービー期の作品にも、人形や壺などを中心に継続して見ることができる。(ウィリアム・デュズベリーT世前期のマークの欄を参照。)
2b-6



チェルシー・ダービー期の初期に導入され、ブルア期に至るまで長く使用された。  チェルシー・ダービー期に入ると、磁器人形は型番をふって管理するようになった。19世紀の研究者、John HaslemとWilliam Bemroseが各々その型番リストを出版しており、全部で397番までの番号が知られている。この番号は、数字のみ、または頭に"No"をつけて、人形の台座裏面に刻み込まれている。

 この刻み込まれた型番は、人形だけでなく、壺などにも見られる。従来は、この型番が装飾作品全般に共通したものなのか、人形と壺とで別系列の型番が用いられたのか明確な分析がなされていなかった。実際には、両者には別系列の型番が用いられていたことがほぼ確実だと考えられ、壺の型番については131番まであることが判明している。

 さらに、同じ型の人形・壺でも複数のサイズがあり、そのサイズも数字で管理された(サイズ1が一番大きく、数字が下るにつれて小さくなる)。何種類のサイズがあるかは人形・壺ごとに異なり、その作品の人気度などを反映していたと見られる。(3種類以内の場合が多いが、中には6種類もある作品もあった。)このサイズ番号は、数字のみの場合もあるが、例えば"Second"のように型番と区別する形で記される場合もある。

 また、リペアラー(装飾作品を作る際に、複数の部品を組み合わせて全体を整える役割を担う職人)のマークが合わせて刻み込まれることもある。"*"がIsaac Farnsworthの、"△"がJoseph Hillのマークであることが知られている。
(ウィリアム・デュズベリーU世期のマークのページを参照。)