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ダービーのマーク一覧


 ダービーでは、1770年にチェルシーを買収するまでは、一部の例外を除いて、基本的にマークが使用されなかった。しかし、マークが導入された後は、マークの付いた作品の比率は高かった。特に、ウィリアム・デュズベリーII世が経営した時期には、厳格な生産管理に基づき、窯印以外に、図柄番号や技術者番号もあわせて記載されるなど、マークの持つ情報量が多い。チェルシーやウースターと異なり、ダービーのマークを入れた贋作が少ない(ないわけではないが)こともあわせて、ダービー作品の判別にとって、マークは重要な要素となっている。以下に、時期別のマーク及び関連する情報をまとめてみたい。

目 次

1748-1755年頃(アンドリュー・プランシェ期)のマーク
1756−1770年頃(ウィリアム・デュズベリーT世前期)のマーク
1770−1784年頃(チェルシー・ダービー期:ウィリアム・デュズベリーT世後期)のマーク
1784−1795年頃(ウィリアム・デュズベリーU世期)のマーク
1795−1811年頃(デュズベリー&キーン期)のマーク
1811−1848年頃(ブルア期)のマーク
1849−1935年頃(キングストリート工場)のマーク
1876−現在(オスマストン通り工場)のマーク


0.1748-1755年頃(アンドリュー・プランシェ期)のマーク
 ダービー磁器の最初期、アンドリュー・プランシェ(コラム3参照)の経営下にあった時期には、基本的に窯を表すマークは用いられなかった。例外として、有名な3つの「苺のクリーム差し」が知られている(コラム2参照)。この3点に刻み込まれた文字(マーク)はそれぞれ異なっており、一つには「D」、もう一つには「D.1750」、そして3つめには「Derby」と記されている。

 マークではないが、この時期の作品の大半を占める磁器人形については、台座の端が無釉のビスケット状態になっている「ドライ・エッジ」が見られることが多い(ダービー「D1-12」参照)。


1.1756−1770年頃(ウィリアム・デュズベリーT世前期)のマーク
番号 マーク 説 明
 1756年にウィリアム・デュズベリーT世が窯の経営権を得た後も、やはり原則としてマークは用いられなかった。ただし、例外的に以下のものがある。

@「New D」
 1756年頃の磁器人形で、このマークが刻み込まれたものがある。これは"New Dresden"を表すと考えられている(コラム1参照)。

Aいわゆる「コンパス・マーク」
 コンパスを用いて描いたような正確な円の中に三角形が、さらにその中にアルファベットのYと見られる文字が記されたもの。これも1756年直後の過渡期の磁器人形に刻み込まれたものである。このマークの付けられた人形群("Girl-on-a-Horse"グループとも呼ばれる。)は素地等が異質でダービー作品ではない可能性もあるとされるが、研究者の間でも定説の形成に至っていない。

B「W.D-Co」
 このマークも、この時期の人形に刻まれた例が知られている。"William Duesbury & Co."を表すと考えられている。
 
1-1  厳密にはマークではないが、ダービー作品の大きな特徴とされる「パッチマーク」(patch mark。あるいはパッドマーク(pad mark)とも呼ばれる)は、ダービーの窯印的な扱いを受けている。これは人形、壺、バスケットなど比較的大きな作品を中心に見られる丸い黒ずんだ焼痕で、窯の中で3〜4個の球状の台の上に作品を置いて焼いたことによる。
 パッチマークは、デュズベリーT世期の当初の作品から、少なくとも18世紀末までの、長期間に渡るダービー作品の特徴となっている。(チェルシー・ダービー期のマークのページを参照。)
1-2  アンドリュー・プランシェ期以来の台座裏面が無釉であるという特徴は、デュズベリー期の初期の1750年後半頃までは継続したと見られる。人形に限らず、実用品であっても下面が平らな場合は、裏面が無釉であることが多い。


2.1770−1784年頃(チェルシー・ダービー期:ウィリアム・デュズベリーT世後期)のマーク
(別ページ)


3.1784−1795年頃(ウィリアム・デュズベリーU世期)のマーク
(別ページ)


4.1795−1811年頃(デュズベリー&キーン期)のマーク

 健康状態に問題を抱えていたウィリアム・デュズベリーU世は、1795年に共同経営者として、ロンドンで独立してミニチュア絵付けを行っていたマイケル・キーンを迎え入れた。ウィリアム・デュズベリーU世は翌1796年に亡くなり、実質的にはキーンの単独経営となったが、デュズベリー家(当時、息子のウィリアム・デュズベリーV世は9歳だった。)は形式的には経営者の一員であり続けたため、デュズベリー&キーン期と呼ばれる。(なお、キーンは、1797年にウィリアム・デュズベリーU世の妻であったサラ・デュズベリーと結婚した。ほどなくこの結婚は破綻するとともに、「デュズベリー対キーン」の財産争いの裁判が起き、最終的にはキーンが全財産をロバート・ブルアに売却することとなった。)

 この時期のマークは、ウィリアム・デュズベリーU世の時期から大きな変更はない。ただし、1806年頃に「交差バトンマーク」(ウィリアム・デュズベリーU世期のマーク(3-1)参照。)の基本色が、それまでの暗褐色(puce)から赤に変わっている(下記5-1のマーク)。

 デュズベリー&キーン期に新しく導入されたマークとして、「交差バトンマーク」のバトンの下に記される「D」が、DとKが重なった形に置き換えられたマークがあるとされている。いかにも「デュズベリー&キーン」に相応しいマークであるが、知られている実例は一点のみ、ヴィクトリア&アルバート美術館にあるポーター・マグ(マークの色は暗褐色)だけである。

 1795-1805年頃の作品には、金彩師番号が記されていないとされる(キーンの意向に基づくものと言われる)。暗褐色の交差バトンマークの付いた作品が、ウィリアム・デュズベリーU世期の作品であるか、デュズベリー&キーン期の作品であるかは、1795年頃に絵付師たちの大幅入替えがあったので絵付けの特徴などからも推測可能であるが、金彩師番号の有無も参考の一つになるかもしれない。

 赤色のバトンマークは、ブルア期にも継続して使用されたため、このマークの付いた作品がデュズベリー&キーン期の作品であるのかブルア期初期の作品であるのかは判断が難しい。


5.1811−1848年頃(ブルア期)のマーク
番号 マーク 年代 説 明
5-1







1806-1825年頃  1806年頃以降、「交差バトンマーク」(ウィリアム・デュズベリーU世期のマーク(3-1)参照。)の基本色は赤に替わる。経営者が替わったわけでもなく(その時点では、いまだマイケル・キーンの経営下であった。)マーク色変更の理由は不明である。この赤という色は、オレンジ色がかった薄い赤であることが多い。当初は、puce markと同様、丁寧に描かれていたが、ブルア期(1811年以降)になると、次第に乱雑に描かれるようになっていく。

 図柄番号制度は、1810年代のはじめ頃までは継続されたと考えられているが、それ以降は新規図柄の番号登録は途絶え、図柄番号の記載された作品自体も減少したと考えられる。

 一方、金彩師番号の制度はそれよりも長く継続したと考えられている。番号の記載される位置は、もはや高台内側とは限らず、裏面マークの周辺全般に記される。金彩師と絵付師の2つの番号が記される場合も多い(色はともに赤が一般的)。また、puce markの時期と比べて大きな番号が多い。(Twitchettによれば、最も大きな番号は80番台に達しているとのことである。)なお、Haslemは、1820年頃の金彩師として、以下の番号と氏名をあげている。

  1. Samuel Keys
  2. James Clarke
  7.    Torkington
  8. John Beard
 14. Joseph Brock
 16. Joseph Broughton
 18. John Moscrop
 19. Munday Simpson
 21. James Hill
 27. George Mellor
 33. Thomas Till
 37. John Whitaker
5-2 1825-1840年頃  ロバート・ブルア(Robert Bloor)は、1811年にダービーの経営権を握ったが、その時点ではマークには変更を加えなかった。しかし、上述のとおり、バトンマークがあまりに乱雑に描かれるようになり、顧客からもクレームがつくようになった事態を改善するため、手描き方式に替えて、転写方式の新マークを導入した。二重の円の中央に伝統の王冠を配し、その周囲にBLOOR DERBYと経営者名を明記している。(当初は、二重円のみが転写で、王冠と名称は手描きだった。)

 本来は、銅版から皮のパッドを用いて転写する方式のマークであるが、実際には親指を使って転写されることも多く、そのため不鮮明なマークも少なからず見かける。

 なお、一般にBloor Derbyと呼ばれる作品は、このマークや下の5-3のマークなどのブルア期の新マークの付された作品をさすことが多い。
5-3 1825-1840年頃  これもブルア期の転写マークの一つである。王冠の下にDという、2b-2のマーク(チェルシー・ダービー期のマークのページを参照。)に倣った、よりクラウン・ダービーの伝統に沿った意匠であり、BLOORの文字は見られない。(このマーク以外にも、「王冠の下にリボン(リボンの中にDERBYの文字)」というマークもある。)

 なお、ブルア・ダービーは転写式マークを統一せず、複数のマークを並行して使用した(さらに、転写方式マークが導入された後でも、稀にバトンマークが使われた例もある)。また形状や図柄に応じて規則的にマークを使い分けることもなかったようである。


6.1849−1935年頃(キングストリート工場)のマーク
番号 マーク 年代 説 明
6-1 1861/62-1935年頃  1848年のダービー閉窯後まもなく、ダービーの6人の職人たちが、ダービー市内のキング通り(King Street)に共同で磁器会社を設立した。新工場は、旧ダービーの伝統の継承を謳っており、マークに関しても、当初は旧ダービーの手描きの「バトンマーク」をそのまま用いていた。(その他、円形の中に経営者名を記入したマークも使用された。)しかし、陶磁器研究者Llewellynn Jewittから旧ダービー作品との混同を指摘され、あわせて、その解決策として交差するバトンを交差する剣に変更し両脇に当時の経営者二人(Stevenson & Hancock)のイニシアルを配すべきとの提言がなされると、1861か62年頃に、そのとおりにマークが変更された。

 1866年にStevensonが亡くなり、Hancockの単独経営となったが、彼の姓名のイニシアルがS.H.(Sampson Hancock)であったことから、マークには変更が加えられなかった。その後も経営者は替わったが、マークは一切変更されず、1935年にロイヤル・クラウン・ダービー社に買収されるまで、同じマークが使用され続けた。(買収された後も一部使用されたとされる。)

 この同一マークが70年以上に渡って使用され続けたことは(特定時期の経営者のマークなど付随的なマークも一部あるが)、キングストリート工場の作品の年代特定に大きな障害となっている。さらに、1890年以降、(米国への輸出品に原産国表示が義務付けられたため)多くの英国磁器窯でEnglandという国名が記載されるようになったが、キングストリート工場は、輸出には関心を示さなかったようで、国名が記されることがなかったことも、判別をいっそう困難なものにしている。


7.1876−現在(オスマストン通り工場)のマーク
番号 マーク 年代 説 明
7-1 1878-1890年  1876年、ロイヤル・ウースター社出身のエドワード・フィリップス(Edward Phillips)が、ダービーのオスマストン通り(Osmaston Road)にDerby Crown Porcelainという磁器会社を興した。明らかにロイヤル・ウースターの社名(Worceter Royal Porcelain)を意識するとともに、かつてのクラウン・ダービーの名声にあやかろうとする命名だと思われる。その姿勢はマークにも表れており、青色で宝石を散りばめた王冠の下にD(ただし、左右対称に2つのDを重ねたもの)という、2b-2のマーク(チェルシー・ダービー期のマークのページを参照。)を強く意識したものとなっている。

 なお、1880年以降、マークの下に製造年を示す記号が付されるようになった。写真のカタカナのユを横に倒したような記号がそれで、これは1882年のものである。
7-2



1890年以降  クラウン・ダービー社は、1890年にビクトリア女王から御用達の指名を受け、社名をロイヤル・クラウン・ダービーと改めた。マークの基本的形状には(王冠の細部を除いて)変更はないが、"Royal Crown Derby"と社名が記載されるのは、この年からである。Englandの国名表示は1891年以降付されている。(1921年以降は"Made in England"と付される。また"Bone China"と記されるのは第二次大戦後のことである。)

 製造年記号は引き続き記載されており、1番目の写真では(図柄の登録番号の下の)下向きの三日月の記号で1890年を表す。Englandの文字は赤いスタンプで後から加えられたものである。(なお、その下のDERBYという刻印は、1878-1900年の作品に見られることがあるもの。)

 さらに、2番目の写真の製造年記号は漢字の中のような記号で1914年を、3番目の写真ではローマ数字(1938年以降は、38年をI、39年をIIというようにローマ数字で製造年を記載する方式となった。)のXLIV(=44)で1981年を、それぞれ表している。

 なお、マークの下のアラビア数字(2番目の写真の2451と3番目の写真の383)は、ともに図柄番号である。